まぼろし

イクサガミの二次創作をしています

一夜花(5) #小説

「あんな四蔵兄を見たら、三助兄はきっと」
蠱毒前の四蔵と七弥の話です。


ー何を、しているのだろう。
 真っ白な便箋に溜め息が落ちた。筆を執るが、書き出せず置く。その繰り返しで、もう小一時間が経つ。
 兄の文の返事だ。いつもは考えずとも文面が浮かぶが、今日は違う。
ー四蔵兄のことを書くか否か。
 迷い、筆が進まない。
 兄との再会から七日が経つ。兄は報せもなく家を訪れ、挙げ句「幻刀斎はいる」「風五郎は殺された」と、それだけ告げて去ろうとした。その言動、いや兄の全てが異常だった。
ーこの人は、放っておいたら死ぬ。
 そう感じ、気づけば首を打っていた。気を失った兄を前に、途方にくれた。
 家に運び、布団に寝かせると、やがて兄は目を覚ました。自分の顔を見て「俺は、倒れたのか」と問う兄に「そうだよ」と頷く。噓だった。だが事実を告げて詫びるより他に、聞きたいことが山ほどあった。
 だが、聞きにくい。言い出せずにいると、兄が身を起こし、さらに「世話になった」と言って腰を浮かした。行くつもりだ。
「待ってくれ」
 身を乗り出し、肩を掴んで押し戻す。
「どうして四蔵兄は幻刀斎と風兄のことを知ったんだ」
 詳しく話してくれないか。そう続けると、兄は顔を顰めた。
 やはり昔の兄とは違う。無愛想で無口だが、こうもぞんざいではなかった。
「とりあえず、俺の話を聞いてくれ」
 呼び水になれば。そう思い、語った。山を降りた後、三助兄と共にいたこと。東京で妻と知り合い、義父の伝手で佐賀県庁の役人となったこと。
「四蔵兄さんはどうだ」
 またしても兄は顔を顰めた。だが「どうだ」と押すと、溜め息を吐き、一応は語った。
 山を降り、一人で各地を転々とし、教導団を経て広島鎮台所属の軍人となったこと。西南の役から帰って風兄の死を知り、兄弟を捜し始めたこと。
「四蔵兄さん」
 口を挟む。改めて聞かなければならなかった。
「風兄は、本当に幻刀斎に殺されたのか」
 他の兄弟や、あんたにではなく。
 兄の顔を見つめる。兄は眉一つ動かさず、頷いた。
「諏訪に行って確かめた。家に剣の跡が残っていた。兄弟のものとは違った」
 違和感を覚えた。「諏訪」という地名が、やけに兄の舌に馴染んでいる気がした。
「兄さんは、そのとき初めて諏訪に行ったのか」
 兄の瞳が、微かに揺れたように見えた。だがそれも一瞬で、何事もない調子で兄は言った。とんでもないことを。
「鎮台に行く前に、そこにいると知って訪ねた。そのときに巨門を託された」
「な」
 思わず声を上げていた。
「風兄は、巨門を四蔵兄に託したのか。どうして」
 声が大きくなる。身を乗り出す自分に対し、兄は一言。
「あいつは「無事に帰ってきてくれ」と言っていた」
 他人のやりとりを語るように、抑揚のない口調だった。
 判らなかった。風兄の行いではない。それを語る四蔵兄の様子が。あんた本当に四蔵兄か。そう喚きたい。だが判っている。この人は四蔵兄だ。
 臍を噛んで俯く。そんな自分に何を思ったのか、兄は「確かめるか」と腕を差し出した。確かめるまでもない。巨門の話は真だろう。
 だが他は違う。たとえば「一人で各地を転々としていた」。風兄が四蔵兄を放っておくはずがない。
ー兄さんは、風兄といたんだろ。
 言ってどうする。二人の間のこと。自分が踏み込むべきではない。正直、踏み込むのが怖い。だがそうしなければ、きっと兄は死ぬ。瞼の裏に赤い痣がちらつく。頭が揺れ、額を押さえる。
 兄は気に止めず、立ち上がり背を向けた。襟の上のうなじは、やはり骨のように白い。
「待てよ」
 立って兄の肩を掴み、息を呑む。薄い。何も入っていないみたいに。
 兄が手を払う。空を掴んで思い知る。
ーやはり、俺には無理だ。
 そのときだった。軽い足音、さらに「いけません!」と声。息子が目覚め、廊下を駆けている。やがて足音が近づき、襖が開いた。
「おとうさん」
 満面の笑みが、強ばる。兄の姿に戸惑ったのだろう。入口で立ち尽くす。その肩に細い手が乗った。
「いけませんと言っているでしょう」
 妻である。息子を「めっ」と叱った後で、兄に向かい「すみません」と詫びた。
 兄は立ち尽くしていた。だがやがて「こちらこそ」と言い、傍らを擦り抜けて廊下に出た。「四蔵兄!」と呼んでも、振り返ることなく家を出ていった。
 今は鎮台だろう。そして近いうちに三助兄を訪ねる。幻刀斎に気をつけろ。そう伝えるために。
 首すじが粟立つ。三助兄にとって恐ろしいのは、幻刀斎より四蔵兄ではないか。
ーあんな四蔵兄を見たら、三助兄はきっと。
 打ちひしがれるだろう。罵り、殴り、痛め、痛み、そして「だめだ」と泣く。あの夜と同じ顔で、きっと。畳む
一夜花(4) #小説

「俺は、心配することしかできないからだ」
蠱毒前の四蔵と七弥の話です。


ー俺は、風兄が怖い。
ーでも、四蔵兄のほうが、もっと怖い。


 膳を持って庭に降りた。四蔵兄は庭の小屋で寝ている。母屋から離れていて、兄弟は体調を崩すと小屋に篭もる。
 一番多いのが四蔵兄だ。剣は強いが身体は弱い。三月に一度は熱を出して篭もる。だから三助兄は皮肉って「四蔵の部屋」と呼ぶ。
 庭を歩く。新月で暗く、足は鈍くなる。いや、暗いからではない。怖いからだ。
ー俺は、風兄が怖い。
 愁兄を殴打したきり、風兄は落ち着いている。四蔵兄から離れない点を除けば、いつもどおり、穏やかで優しい。いっそ三助兄の方が、四蔵兄が心配だからか、明らかに気が立ち、当たりがきつい。
 だがそれでも、三助兄より風兄のほうが怖い。特に強く感じるようになったのは、三月ほど前。風兄が消えた、あの一件からだ。


 風兄が消えた。
 睦月の初め、大雪の日だった。朝から牡丹雪が降り続け、夕方には腰の高さまで積もっていた。夜になっても止まず、一兄に「雪かきに備えて早く寝ろ」に促され、皆早く床についた。
 ひどく寒い夜だった。彩八は「さむくてねむれない」と愁兄の布団に潜り込み、甚六も「七弥、身体貸せ」と巻きついてきた。
 他の兄弟は各々の布団で寝ていた。けれど明日、目覚めたら風兄は四蔵兄を抱き込んでいるのだろうな。そう思いながら眠りに落ちた。
 だが、当ては外れた。目覚めると、風兄の布団は空だった。厠かと思ったが、家のどこにも見当たらない。皆で呼んでも返事がない。
 山に出たのか。どうして。雪は胸の高さだ。こんな大雪で、何のために。
 兄弟は困惑した。「はしゃいで出て行って、帰れなくなったのか」と甚六が言い「お前じゃねえんだから」と三助兄が返す。「山に忘れ物をして、取りに行ったのかもしれない」と愁兄が言い「風五郎を捜すぞ」と一兄が締め、皆で雪かきに勤しんだ。
 雪は重く、骨が折れた。家の周りだけで一日掛かった。
 翌日、翌々日は山を探した。温かく、雪は融けた。普段行く辺りは全て探したが、風兄は見つからなかった。
「山を降りたのかもな」
 三助兄がぼそりと言った。
「まさか」
「風兄は兄弟を置いていく奴じゃねえよ」
 愁兄と甚六が声を上げた。彩八も「そうだよ」と続いたが、自分は黙っていた。「兄弟を置いて」ではなく「四蔵兄を置いて」では。そう思ったことを後ろめたく感じながら。
 四蔵兄も黙っていた。顔を窺い、ぞっとした。まるで人形だった。一切の表情も、感情もないように見えた。目を伏せた。見てはならないものを見た気がした。
 結局、二日を経て風兄は帰ってきた。甚六の言ったとおり、雪見に出て、大雪で帰るのが遅れたという。
「すまない」
 眉を八の字にして風兄は詫びた。甚六と彩八が泣いて抱きつき、三助兄が「うるせえ」と唸り、愁兄が「無事で何より」と肩を叩き、一件は落着した。
 だがおそらく、雪見ではなかった。そして一兄と四蔵兄は、そうと知っていた。三人は同じ顔をしていた。薄い笑みの下に、翳を孕んでいた。
 問い質そうとは思わなかった。怖かったからだ。まずは風兄が。帰った後、ひどく険しい顔をするようになった。人知れず四蔵兄を見つめて。
 四蔵兄もまた怖かった。風兄はさもすると「壊されそうで」怖い。対して四蔵兄は「壊れそうで」怖い。理由は判らなかった。だが今回の件で、判った。
ーこの人は、放っておいたら死ぬ。
 他人は重く、自身は軽い。だから見返りも求めず、一切を放り出す。それが一番怖い。
 四蔵兄は怖い。見ていると、苦しみ、悲しさ、寂しさが込み上げてくる。
 そして。
ーせつないな。
 甚六の声が頭を過った。春先に、茶けて落ちた木蓮の花弁を拾い「なんか、せつないな」とぽつりと言っていた。


 ともあれ、小屋には怖い二人が揃っている。しかも危うい状態で。
 唾を呑み、足音を忍ばせて近づく。微かに声が聞こえる。四蔵兄の声だ。
 戸口の前に立ち、脇のかめに膳を置く。声は続いている。息を殺して戸に顔を寄せ、中を覗き込む。風兄の大きな背中と、横たわる四蔵兄が見えた。
ー見なければよかった。
 そう思ってしまった。四蔵兄はやつれ、苦しげだった。熱が高いのか、顔は赤く汗ばんでいる。目も虚ろだ。それでも必死に唇を動かしている。
「⋯を、するな」
 聞き取れなかったのか、風兄が顔を寄せる。四蔵兄が繰り返す。
「俺に付き合って、お前まで、無理、をするな」
 言い終えるなり、噎せた。
ー無理をしているのは、どっちだ。
 どうしてこの兄は、無頓着に、無造作に、その身を削って止まないのか。
 ほぞを噛んだ。噛みながら、風兄の背が震えるのを見た。泣いているのかと思っていると、その腕が動いた。枕元の椀を持ち上げる。夕方に届けた重湯だが、ほとんど手つかずだ。
 風兄は椀を四蔵兄の口元に運ぶ、かと思いきや、自ら口をつけた。そして空いた腕で四蔵兄を抱き起こす。四蔵兄が首を傾げ、風兄を見つめる。
「ふう」
 風五郎、と呼ぶ声は、そこで途切れた。風兄と四蔵兄の顔が、唇が重なっていた。
「んっ」
 四蔵兄が潜った声を漏らす。風兄の肩を掴み、押し戻そうともがく。だが風兄はびくともせず、四蔵兄を抱き込んでいく。
 危険だ、と思った。四蔵兄の身体には、未だ毒が残っている。薄まってはいるが、むやみに触れるべきではない。しかも風兄は毒に弱い。四蔵兄より重篤になる恐れすらある。
 判っているから、四蔵兄は抗う。だが風兄は離さない。四蔵兄の手から力が抜けていく。肩から背に滑り落ち、そこで止まった。四蔵兄が爪を立て、風兄の衣を掴んでいた。幼子が母親に縋るように。
 四蔵兄の喉が一度、大きく上下した。飲み込んだのだ。さらに二度、三度と続く。
 ようやく風兄が四蔵兄を離した。だがまた重湯を含み、口づける。四蔵兄は抗わなかった。風兄の頭を抱き込み、注がれるままに飲み干していた。
 風の、葉擦れの、一切の音が消えた気がした。自分の呼吸と鼓動。それしか聞こえない。
ー俺は今、何を見ているんだろう。何を感じているんだろう。
 判らなかった。全身が小刻みに震えている。憤怒でも歓喜でもない。恐怖から。
 怖かった。風兄の背から、四蔵兄の指先から迸る、狂気じみた何か。それが怖くて仕方なかった。
 離れなければ。そう思うが、身体が動かない。
「⋯はあっ」
 どれほど経ったのだろう。四蔵兄が息を吐き、二人が布団に沈む。それでようやく足が動いた。二歩、三歩と後ずさり、踵を返して駆け出した。
 居間には戻れない。母屋を横切り、裏の藪へと全力で駆けた。その間中、先程の光景の断片が浮かんでは消えた。どれだけ駆けてもついてくる。影のように。
 ふいに身体が浮いた。続けざまに衝撃。転んだらしい。手と膝に鋭い痛みが走る。
 起きはしたが、立てなかった。膝を抱いて顔を埋める。目頭が熱い、と思ったら、えっ、うっ、と嘔吐くような声が出た。嗚咽だった。
 泣いていた。理由は判らない。だから止めようがない。座り込み、泣き続けた。
 かさ、と葉を踏む音がして、身体が跳ねた。振り返り、固まった。五間ほど離れた場所に、人が立っている。甚六だ。
 表情は判らない。だが、困惑は感じ取れた。
 甚六は問うだろう。「どうして泣いている」と。自分も知りたい。どうして泣いている。恐怖か。違う。これは。
 もうぐちゃぐちゃだ。甚六を見ている間も、涙はとめどなく溢れていた。
 甚六は立ち尽くしていた。だがやがて歩き出し、自分の前まで来てしゃがみこんだ。突き出された甚六の膝に、傷があった。甚六は怪我が多い。後先考えずに動くからだ。
 そんなことをぼんやり思っていると、頭に重みを感じた。甚六の手だ。ひどくやさしい手つきで頭を撫でながら、甚六は言った。
「お前も、四蔵兄が心配なんだよな」
 だから泣いてるんだよな、と続ける。
ーちがう。
 心配はしている。だが今、泣くのは。泣くほど悲しくて口惜しいのは。
ー俺は、心配することしかできないからだ。
 俺にはできない。風兄のように尽くすことが。四蔵兄が自分を求めないから。まず拒まれる。辛うじて受け入れられても、縋られはしない。
 俺にはできない。四蔵兄のように縋ることも。甚六は優しい。縋って泣けたら楽になれる。判っていて、できない。それはとてもずるい、裏切りのような気がした。
 顔を伏せ、泣き続けた。かなしい、さびしい、くやしい、そして。
ーせつないな。
 甚六の声が、また頭を過った。
 そうだ。
 俺は今、とてもせつない。畳む
一夜花(3) #小説

「どうして四蔵を一人にした!」
蠱毒前の四蔵と七弥の話です。


ー俺には救えない。
 そう、知っている。


 時刻は四時を回っていた。日は傾き、室内を赤く染めている。立派な客間だ。太い梁。彫りの凝った欄間。眺めていると思い出す。初めてこの家に来たときのことを。
 自分は妻と並んで座り、妻の叔母と叔父を待っていた。叔母は妻の育ての親で、自分達が東京から来た日に訪ねてきた。
 感じの良い人々だった。どちらも小柄で、自分を見上げ「立派な若者だなあ」と嬉しそうに言った。
 一方、自分は緊張していた。握った拳に汗が滲む。顔が熱く、ぼんやりとした、そのときだった。冷えた手が拳を包んだ。妻の手だ。
「あなた」
 妻は言い、微笑んだ。労るような、優しい笑みだった。
 あれから三年が過ぎた。三年前は遠い。十余年前はさらに。年に何度か思い出す程度だった。今日までは。
 目を落とす。部屋の中央に敷いた布団に、青年が横たわっている。
ー四蔵兄。
 十余年前に別れた義兄だ。首を打った後、運び入れた。
 兄を抱えて戻ると、妻は息を呑んだ。だがすぐに頷き、客間に寝床を整えた。自分が兄を寝かせると「蒼といます。何かあればお呼びください」と立った。驚いて、思わず問うた。
「聞かないのか」
 この男の素性を。自分との関係を。だが妻は目元を和らげ、
「大切な方なのですね」
 それだけ判れば十分です、と言わんばかりだった。
「大切な方、か」
 改めて兄の顔を見る。放っておいても、じきに倒れていた。顔は白く、隈は濃い。胸は薄く、朱色の痣が目立つ。情交の、いや、一方的に弄ばれた痕だ。
 信じられなかった。どうして情もない相手に身体を許したのか。何か目的があったのか。思いつくのは金だ。だが、何のための金だ。
 傍らを見やる。兄の荷がある。身分証もあった。広島鎮台所属の軍人のものだ。ならば一定の収入は見込める。男一人なら十分だろう。
 まさか。
ー佐賀はどこからも遠い場所だ。それでも、来てくれるか。
 婿入りの際、義父は言った。佐賀は遠い。広島からも。兄はどうやって来たのか。馬か、船か。何れにせよ旅費はかさむ。
 その前に、どうやって自分の居場所を知ったのか。軍の伝手か。伝手は只では使えない。相応の対価を求められる。
 自分の居場所を知り、旅費を得るために。
 兄は自身を「払った」のではないか。
 手が震える。落ち着け。穿ち過ぎだ。仮にそうだとしても、兄が自ら選んだこと。自分が頼んだわけではないー。
 目を押さえ、頭を垂れる。考えろ。兄を止めなければ。救わなければ。だがどうやって。
 やはり自分には救えない。救えるのは、一人。
「風兄」
 だが。
ーあいつは死んだ。幻刀斎に殺された。
「どうして、死んだんだ」
 ほぞを噛んだ。あんたしか駄目なのに。あんたしか、この人を救えないのに。そう悟ったから退いたのに。忘れもしない、あの夜に。


 確か、自分は十一歳だった。
 春の夜だった。冬の抜けない、寒い夜だった。
 午後七時だったが、居間は静かだった。いつもは皆が夕飯に集うのに、その日は四人。一兄、愁兄、甚六、そして自分。三助兄は彩八の元に行っていた。
 二日前から彩八、そして四蔵兄は床に伏していた。彩八は兄弟が交代で、四蔵兄は風兄一人が看ている。交代を申し出ても、風兄が四蔵兄から離れようとしないのだ。
 襖が開き、三助兄が入ってきた。手には空の椀。兄は囲炉裏に近づいて鍋を覗き、
「おかわりだってよ。寝てるだけなのに、よく腹が減るな」
 頬が弛む。彩八の具合は良いようだ。一時はもう、と思ったが、日ごとに回復している。
「何よりだ」
 椀を手に出て行く三助兄に、一兄が頷く。だが襖が閉じるなり、その顔が曇った。
「問題は、四蔵か」
 甚六が唇を噛み、項垂れる。四蔵兄の具合は、ひどく悪い。
 全ての原因は、二日前のあの事件だ。
 彩八がいなくなった。師に叱られ、家を飛び出した。夜になっても帰らず、兄弟は三手に分かれて山を探した。
 見つけたのは愁兄と四蔵兄だった。彩八は満身創痍だった。京八流に因縁を持った男達に、散々に痛めつけられていた。
 四蔵兄が割って入り、男達を斬った。だが敵も手練で、兄自身も深手を負った。愁兄に担がれて帰ったとき、兄は血塗れだった。顔は赤く、息も荒かった。
「毒だな」
 一目見て、一兄が判じた。
「愁二郎は武器を拾って来い。風五郎は俺と四蔵の手当、残りは彩八を頼む」
 指示に皆が従った。
 半刻ほどで手当は終わった。彩八は命に別状はなく、痛み止めを飲ませるとすぐに寝入った。四蔵兄はそうはいかなかった。何を飲ませるべきか判らない。
 やがて愁兄が武器を持ち帰った。案の定、刀身に管の通った小刀があった。だが管は空で、毒の正体は判らない。
 一兄は苦り切って、
「四蔵に耐えてもらうしかない」
 四蔵兄は毒に強い方だった。だが熱は下がらず、目は虚ろで、舌も回らない。
痛々しく、見るに堪えなかった。だが風兄は、ずっと傍にいる。その様子に「風兄まで倒れちまう」と甚六が、「やりたいようにさせるしかない」と一兄が、「あいつはおかしくなってる」と三助兄が呻いた。
 確かに風兄はおかしい。二日前からずっと。
 愁兄を見やる。その右頬が腫れ上がっている。風兄に殴られたのだ。
「どうして四蔵を一人にした!」
 怒声が、未だ耳に残っている。
 初めて聞いた。風兄のあんな声も。風兄が四蔵兄を「四蔵」と呼んだのも。
 武器を持ち帰った後、改めて愁兄は語った。四蔵兄に頼まれ、彩八を連れて退いたこと。一兄に彩八を預けて戻ったが、戦いは終わり、四蔵兄は満身創痍だったこと。
 それを聞き、風兄は激怒した。兄弟一、穏やかな兄だ。三助兄に「うすのろ」と罵られても「すまない」と頭を垂れる。
 そんな風兄が、怒鳴った。さらに愁兄の襟を掴み、頬に拳を叩き込んだ。もう一発、と振りかぶる。止めなければと思ったが、身体が竦んで動かなかった。
 恐ろしかった。怒り狂う風兄が、恐ろしかった。
「やめろ風兄!やめろってば!」
 飛び出したのは甚六だった。腕一振りで弾かれながら、なお背に縋りつく。
 我に返り、続いた。自分が右、三助兄が左の腕にしがみつき、ようやく風兄は止まった。背を丸めて「すまない」と呟くと、誰とも目を合わさず、その場を後にした。
 それ以降、風兄は四蔵兄に付きっ切りだ。離れるのは風呂と厠、四蔵兄の食事などを取りに行くときのみ。稽古も当番も放り出し、師に殴られても動かない。
 尤も、稽古は皆身が入らず、師も「事が落ち着くまでは無しとする」と諦めた。だが「事が落ち着く」とは、何がどうなることなのか。
 三助兄が戻ってきた。四つだけの顔を見回し、ぼそりと呟いた。
「あいつ、四蔵と心中する気かよ」
 あいつ、とは風兄だろう。「三助兄」と甚六が睨む。「冗談だ。何だその目は」と三助兄が睨み返す。二人とも気が立っている。
 大半の怒りは恐れから生まれる。二人だけではない。皆恐れている。事が最悪の形で落ち着くのを。
 四蔵兄の具合は悪くなるばかりだ。今はもう、粥すら喉を通らない。人は何日食わずに生きられるのか。考えたくもない。
「七弥」
 一兄に呼ばれ、我に返った。
「風五郎に飯を持っていってくれるか」
 来るかもと、風兄の膳は居間に置いていた。だがやはり、来そうにない。頷いて席を立ち、膳を持つ。「頼んだぞ」という甚六の声を背に、居間を後にした。畳む
一夜花(2) #小説

「あいつは死んだ。幻刀斎に殺された」
蠱毒前の四蔵と七弥の話です。


 昼が過ぎ、日が西に傾いた頃だった。
 自分は息子と縁側にいた。並んで座り、赤本を眺めていた。
 息子は始めこそ賑やかだったが、疲れたか、今は自分に凭れてうとうとしている。頭を撫でながら、つい欠伸が漏れた。
ー俺も寝るか、いや文に悪いか。
 思いながらぼんやりとしていた、そのときだった。
「あなた」
 軽い足音がして、妻が現れた。さらに「お客様です。夕刻の」と告げる。顔が不安げなのは、やはり先方の顔色が悪いからか。
「蒼を頼む」
 息子を横たえ、門に向かう。廊下の角を折れると、門の下に人影が見えた。和装の青年だ。歳も身丈も自分と似ている。だが。
 顔を見て、足が止まった。どころか息が、いっそ心臓すら止まったようだった。十年ぶりだが一目で判る。
ー四蔵兄。
 化野四蔵。四番目の兄、のはずだ。疑わしいほど、変わった。身丈は一尺は伸びた。そして何より、美しくなった。
 尤も、昔も愛らしくはあった。大きな切れ長の目、左の泣き黒子など、俤もある。しかし何なのか。見れば見るほどに、違和感が込み上げてくる。
ーどうしようもなく、変だ。
 何が変なのか。改めて全身を見て、悟った。
ー人らしくない。
 生気がない。まるで人形だ。糸のない操り人形。薄気味悪く、背が粟立つ。声もなく突っ立っていると、兄が口を開いた。
「七弥か」
 良い声だが、色がない。ぎこちなく頷くと、兄は自分を見つめ、首を振った。
「お前と争うつもりはない」
 警戒していると思ったらしい。「違う」と言いかけたが、兄が先んじた。
「幻刀斎はいる。兄弟を狙っている。お前も気をつけろ」
 矢継ぎ早に言い、兄は踵を返した。そして「邪魔をした」と呟くと、それきりで歩き出した。
 あ然とした。何というか、ついていけない。訳が判らない。
ー脱走者は幻刀斎に殺される。だから諦めて兄弟と殺し合え。
 継承戦の折、師は兄弟にそう告げた。だが山を降りて十年、それらしい者は現れなかった。あれは作り話だった。三助兄と自分はそう合点した。
 だが兄は、幻刀斎は実在し、兄弟を狙っているという。鵜呑みにはできない。何を以て「幻刀斎はいる」と判じたか。まずそこが知りたい。
 とにかく、説明が足らな過ぎる。
「四蔵兄さん」
 呼び、背を追う。だが兄は止まらず、足を早めた。髪が風を孕み、うなじが露わになる。抜けるように白く、野ざらしの骨のように見える。
ー何なんだ。何なんだ。何なんだ。
 焦りが込み上げ、叫んだ。
「四蔵兄!」
 追い縋り、肩を掴む。思いのほか硬く、薄い。
 兄が振り返る。改めて見ると、顔も唇も青白い。それよりも目。まるで闇だ。一度落ちれば落ち続けるばかり。そんな底なしの、昏い闇。
 怖かった。手が震える。だが離せない。「放っておけなかった」と妻は言った。確かに、今の兄を放っておいては、まずい。
 だがどうする。自分は今、何をすべきだ。昔はどうしていた。思い返し、がく然とする。
ー俺は、何もしていなかった。
 兄が心身を崩したとき、自分は傍にいなかった。他に適任者がいたからだ。兄弟一逞しい身体と、不釣り合いな温厚さを併せ持ったー。
「風兄はどうしたんだ」
 壬生風五郎。五番目の兄で、この兄と一番親しかった。体格も性分も、奥義すら正反対で、だがぶつからず、二人で一人のように寄り添っていた。互いを欠いては生きられない。そんな危うさすらあった。
 山を降りても共にいる。そう信じていた。だが今、風兄の姿は見えない。どこだ。こんな真っ青な四蔵兄を放って、どこにいる。
 そこまで考え、口を押さえた。
「まさか」
 先んじて、兄が言った。
「あいつは死んだ。幻刀斎に殺された」
 足元が揺れた。何とか踏み止まり、兄を見つめる。目は増して昏い。思わず目を伏せると、兄が払うように腕を振った。だが離さない。離せない。
「離せ」
 兄が身を捩る。手が滑り、誤って袖を引いた。襟が開き、胸が露わになる。その色に息を呑んだ。
 白い。そして赤い。胸から腹にかけ、点々と朱が散っている。見覚えがあった。昨日の娼妓に同じ痣があった。
ー嘘だ。
 あり得ない。この兄に限って。だがこれは何だ。
 頭が割れそうだ。訳が判らない。辛うじて判るのは。
ーこの人は、放っておいたら死ぬ。
 全身の血が引いた。狭まる視界の中で、白い首だけが見えた。腕を振り上げ、そこに手刀を落とす。
 鈍い音がして、兄が崩れた。屈んで抱き止めた身体は、まるで泡だった。強く握れば、指の間から零れ落ちてしまいそうだった。畳む
一夜花(1) #小説

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「昨夕、お客様がありました」
蠱毒前の四蔵と七弥の話です。


 永い、
 永い夜が始まる。


「ーきて」
 声がした。
「おきて」
 また声がして気がついた。瞼を上げると、真ん丸の大きな目が二つ。寝ぼけ眼の自分の顔が映っている。
「蒼(そう)」
 息子だ。歳は三つ。息子は腹に跨り、顔を覗き込んでいる。
「重いぞ」
 たしなめながら身を起こす。だが息子は退かず、腹にしがみつく。脇に手を入れ「えい」と持ち上げると「たかい、たかい」と笑う。顔に光が照り、まばゆい。
 障子は開いていた。外は明るい。時は五月。雲一つない快晴だ。風は温く、甘い匂いがする。米の炊ける匂いだ。
 布団を抜け、息子の手を取る。手をつなぎ、居間へ向かう。襖を引くと、土間に女の後ろ姿が見えた。台の前に立ち、菜切り包丁をとんとんと鳴らしている。
「あや(文)」
 妻だ。妻は振り返り、顔を綻ばせた。
「おはようございます」
 頭を垂れるが、手は乱れない。器用だな、と見入っていると、ふと息子が手を解いた。母の元へ行くつもりだ。むやみに止めるとへそを曲げる。
「ここで待とうな」
 言いながら持ち上げ、肩に乗せてやる。息子は肩車が好きだ。はしゃいで「おにわ」と繰り返す。庭に出ろという意味だ。
「後でな」とはぐらかしていると、文が膳を運んできた。「ひどい寝癖です」と笑うのに「蒼がやったんだ」と返すと、また笑った。
 息子を下ろし、膳の前に座る。寂しい気がするのは、普段は四人か五人だから。自分達と義父で四人、志津を加えて五人。
 義父は一昨日、東京に発った。出張で、ひと月は戻らない。志津は通いの女中で、今日は休み。自分も休みだ。
「ゆっくり寝かせて差し上げたかったのですが」
 妻が箸を止める。そして横目で息子を見、詫びた。
「いっしょに、と言って聞かなくて。お疲れでしょうに、ごめんなさい」
 確かに、疲れていた。
 昨日は帰りが遅かった。宴会だ。地元の公職者の集まりだった。
 気は進まなかった。あの集まりはいつも荒れる。特に昨日はひどかった。始めは皆、礼儀正しく振る舞っていたが、半ばから無礼講になり、挙げ句に娼妓が加わった。
 女が襟を開き、白い乳房を晒す。男は女を抱え、肢体を撫で回す。見るに堪えず、ずっと膳を睨んでいた。二度と出まい、と誓いながら。
「おまえが詫びることではないよ」
 詫びるべきは自分だ。申し訳なく思いながらも、箸を動かす。朝飯は一汁一菜だ。汁の具は山芋、菜は若布。心遣いを感じながら汁を啜っていると、妻が口を開いた。
「そうそう、昨夕、お客様がありました」
 この家には客が多い。主に義父の知人だ。だが妻は続けた。
「七弥という者はいるか、と」
 驚いた。どんな者かと問うと、若い男で、歳も身丈も自分と似ていたという。
ー三助兄か。
 自分には義兄が六人と義妹がいる。三助兄は上から三番目の兄だ。二十余年を共に過ごしたが、三年前、互いの結婚を機に別れた。兄は東京で車夫をしており、たまに文をくれる。愚痴も多いが、恙なくやっているようだ。
 だが、三助兄ではないだろう。先に文で報せるはず。ならば他の兄か、と思い、胸がざわついた。
ー継承戦だ。兄弟で殺し合え。全ての奥義を集めろ。
 父と慕った師は、八人の兄弟にこう命じた。だが、一人の逃走で事はうやむやになり、七人は別れて山を降りた。
 その後、自分は三助兄と生きてきたが、他の五人の行方は知れない。手掛かりもない。求めてもいない。
 顔を合わせれば、きっと「この人は俺を殺そうとした」という憎悪と恐怖、そして「俺はこの人を殺そうとした」という後ろめたさで、息が苦しくなる。
 少なくとも三助兄とはそうだった。兄も同感らしい。よって今さら会いには来ない。まさか奥義を奪いに、とも思いかけたが、これもない。それならば、まずは妻子を質に取る。
 義父に引き合わされた内の誰か。それが妥当な線に思えた。
「他に特徴は」
 何気なく問うと、妻は押し黙った。「どうした」と促すと「えっと」と目を泳がせ、やがて小声で言った。
「とても、美しい方でした。この辺りでは、まず見ない顔で」
 朱の差す頬を隠すように、妻は俯き、
「貴方は留守だと言うと「改めて参る」と帰られました。私は引き留めたのですが」
「な」
 思わず声を上げた。母子二人の家に、男を上げるなど不用心だ。妻は首を竦め「すみません」と詫びたが、
「私も危ないとは思ったのです。ですが、とても具合が悪そうで」
 妻の瞳が揺れる。相手が心配らしい。
「具合が悪そうというのは、病か」
「判りません」
 だがひどく顔色が悪かった。何より目が虚ろで、心もとない感じがした。
「だから、放っておけなかったのです」
 溜め息が漏れた。笑いを含んだ溜め息だ。
 この人は、お人好しだ。出会ったとき、妻は男に胸ぐらを掴まれていた。男が別の女に絡むのを止めに入ったからだという。
 妻に武の心得はない。「いくら何でも考えなしだ」となじったが、妻は一言「殴られても、放っておけなかったのです」と言い切った。その唇は震えていた。それを見て、自分もまた、放っておけないと思ったのだっけ。
 思い出し、口元が緩む。
 とりあえず、危険な者ではなさそうだ。なら待とう。汚れた息子の口を拭う妻を眺めながら、再び箸を動かした。畳む