2026/06/20 Sat 化野四蔵の懊悩(2) #小説 「この、馬鹿!」 酒の席での失態を知り、ひたすら懊悩する四蔵の話です。 全3話予定。 続きを読む ・ 或る秋の日の、夕暮れのことである。 「って!」 家の裏手の切り株に座り、柿を齧ろうと口を開け、呻いた。 右の頬が痛い。そっと手をやると、見事に腫れ上がっている。殴られたのは一昨日だが、未だ引いていない。 七弥の拳は重かった。手加減は一切なく、身体の芯にめり込んだ。今も頬、いや顔の右半分が腫れ、食えど喋れど痛い。 「くそ」 悪態を吐くが、判っている。全て自業自得だ。 二日前のことを思い出す。 自分は一人、山道を歩いていた。彩八に蜂蜜を奪われ、だが諦め切れず、山中で蜂の巣を捜そうと思い立ったのだ。 やがて一本の巨木に目が留まった。蜜の取れる巣はこういう木の洞にある。茂みを掻き分けて近づき、木の周りをうろついていた、そのときだった。 背後で茂みが鳴った。熊か、と構えたが、振り返り、拍子抜けした。 「何だ、四蔵兄か」 気安く声を掛け、そこで気づいた。兄の様子が変だ。息は荒く、顔も真っ赤だ。 だが「どうした」と問うより早く、兄は自分に歩み寄り、がっと肩を掴んだ。逃さない、と言わんばかりに。 ひたと自分を見据え、兄は問うた。 「俺は何をした」 訳が判らず、問い返した。 「いつのことだよ」 「先日の宴の夜だ。俺は何をした」 訳は判った。だがこれは、極めてまずい。知らぬ方が幸いなこともある。これがまさにそれだ。 「よく覚えてねえな」とはぐらかそうとした。だが眼前の兄の様子に、開きかけた口を閉じた。 頬を朱に染め、瞳を潤ませ、縋るように肩を掴む。こんなにいたいけな生き物を無下に扱ってよいものか。答えは否である。 「酔っ払って、風兄の膝で寝ていた」 これで勘弁してくれ。胸中でそう願ったが、兄は許さなかった。 「それだけか」 「それ、だけだ」 目が泳ぐ。 「甚六!」 兄が襟を締め上げる。声も手つきも激しい。だがその顔は今にも崩れ、泣き出しそうに見えた。泣かれては困る。 「風兄は「布団で寝ろ」って言った。だけど四蔵兄は「お前がいい」って、風兄の膝から離れなくて」 支えながら話した。話が進むにつれ、四蔵兄の顔から色が失せていった。 話し終えると、兄は襟を放し、二歩三歩と後ずさった。かと思えば踵を返し、脱兎の如く駆け出した。愁兄より速い。だが放ってはおけない。 「四蔵兄!」 名を呼び、後を追うが、すぐ見失った。やがて辺りが暗くなり始め、やむを得ず家に戻った。 やはりというか、家の周りにも兄の姿はなかった。どころか夕飯の刻になり、居間に皆が集っても、兄は現れなかった。 一兄や愁兄が「珍しいな」と首を傾げ、風兄や七弥は不安げに視線を巡らしている。そんな皆を横目に、俯き、拳を握り締めた。 ーこれは、俺のせいだ。 皆に打ち明けるか。駄目だ。兄達に叱られる。いや、打ち明けて皆で四蔵兄を捜すべきでは。 悶々と考えていると、すぐ横で声がした。 「甚六」 七弥の声だ。振り仰ぎ、ぎょっとした。弟は鼻がつくほど顔を寄せ、此方の顔を覗き込んでいた。 「お前、四蔵兄に何かしたのか」 次いで据わった目で「したのだろ」と迫る。はぐらかせない。 「した、というか」 皆の視線を感じた。背を丸めて俯き、それでも話した。四蔵兄に問い質され、宴での兄の様子を教えてしまった、と。 兄弟は固まり、黙っていた。察したのだろう、彩八も然り。だが。 「この、馬鹿!」 怒号が轟いた。一兄でも三助兄でもない。七弥である。次いで頬に衝撃。殴られた、と気づいたのは、もんどりうって床に倒れた後だった。 七弥は止まらない。此方の襟を掴み、また拳を振り上げる。 「だめ!」 彩八が声を上げ、その腕にしがみつく。それで我に返ったように兄達が腰を上げた。愁兄と風兄が七弥を抑え込む。だが七弥は「離せ!」と喚き、暴れ続けた。その目からぼろぼろと、大粒の涙を零しながら。 聡明で利口な末の弟。そんな七弥のこんな姿は見たことがない。皆が息を呑み、身動きもできずにいる中、一人、動いた者がいた。 ごん、と硬い音。次いで頭に鈍痛。 「って!」 声を上げて振り仰ぐと、三助兄が立っていた。胸の前で固められた拳に、これを落とされたと気づく。 「本気で馬鹿だろ。お前」 兄は吐き捨て、再び拳を落とす。甘んじて受けた。兄の言うとおりだ。 やがて七弥は抗うのを止めた。重苦しい沈黙の中で一人、しゃくり上げ、泣き続けた。 それから半刻ほど経って、四蔵兄は帰ってきた。誰とも目を合わさず、足早に席につき、飯を掻き込んで席を立った。 それから一日余りが過ぎた。四蔵兄は、意外にも平気そうだ。少なくとも朝飯はきちんと食い、修行にも励んでいる。気まずそうではあるが、兄弟を避ける様子もない。 問題は七弥だ。昨晩からこの方、ずっと自分を避けている。口を利かず、目も合わさず、まるで無い者扱いだ。 ーあいつ、意外に根に持つよな。 内心でぼやく。反面、怒るのも尤もだと思う。今になって判る。口が裂けても言うべきではなかったと。 生真面目な兄のことだ。人の十倍は気に病み、挙げ句に何をしでかすか。不安が込み上げ、息が詰まる。 それに。 ーあいつでも、あんなふうに泣くんだな。 七弥の涙が頭を過ぎる。あの後、七弥は愁兄に抱えられ、しばし泣き続けた。小刻みに震える肩が、弱々しい嗚咽が、未だ生々しく、胸を締めつける。 と。 「何してんだ!」 不意の大声に我に返った。三助兄の声だ。出所は土間か。 小走りで向かい、戸口に顔を突き入れる。すぐ傍に四蔵兄が立っていた。その顔は蒼い。 「どうした」 と問うた。声で初めて気づいたように、兄は自分に向き直り、首を横に振った。 「火傷だ。大したことはない」 兄が手を掲げる。そうは言っても、手の甲は真っ赤だ。早く冷やさなくては。桶の水は少ない。だが兄はろくに気に留めず、手を入れようとする。 「甚六、そいつを連れていけ」 手が離せないのだろう。煮えた鍋の前で三助兄が言う。頷き、四蔵兄の手首を掴んだ。そして家の裏手の水がめに向かい、全力で駆けた。 ・ 何を、やっているんだろう。 薬の臭いを嗅ぎながら、溜め息が漏れた。とんだ失態をした。先程の土間での件だ。 自分は味噌汁の係だった。鍋に湯を沸かし、大根を切って入れたつもりが、横にあった天ぷらの鍋に入れていたらしい。 盛大に油が跳ねた。三助兄が直ぐ鍋を退けて事なきを得たが、そうでなければ大事になっていた。 これだけではない。昨日からずっと上の空だ。やたらと壁や柱に当たり、刀を置き忘れ。さもすると甚六の話が蘇り、他が疎かになるせいだ。 正直、兄弟と顔を合わせるのがつらい。特に風五郎とは。目が合うと逃げ出したくなる。 ーあんな失態は、二度と犯すまい。 奥歯を噛み締め、誓う。 まず酒は断つ。だがそれだけでは足りまい。一番の原因は酒ではない。自分の弱さにある。 ー俺は、弟に甘え過ぎている。 横にいたのが三助兄だったら、あんな真似はしなかった。一兄でも愁兄でもそうだ。風五郎だったから。日頃から気を許し、甘えている弟だったから。酒が過ぎ、甘えも過ぎた。 ーこのままでは、まずい。 そう思い、昨日からそれとなく隔たりを置いている。だが正直、既にしんどい。 まず、足がだるい。これは常日頃、高い所のものは弟が先んじて取っていたからだ。爪先立ちで手を伸ばし、それでも届かず台を持ち出すたび、何とも情けない心地になる。 加えて、とにかく落ち着かない。何をしていても、何か大事なことを忘れている気がする。目は勝手に弟の姿を探し、何をしている、と首を振る。その繰り返しだ。 ー情けない。 こんな体たらくで何が兄だ。自立せねば。 薬を塗り込めた手を膝に置く。包帯を巻こうとして、止めた。これしきの傷に包帯など大げさだ。 だが、きっと、あいつなら。 「痛くないか」と言って、包帯を巻くのだろうな。 ついそんなことを考えてしまい、また溜め息が漏れた。 畳む
「この、馬鹿!」
酒の席での失態を知り、ひたすら懊悩する四蔵の話です。
全3話予定。
・
或る秋の日の、夕暮れのことである。
「って!」
家の裏手の切り株に座り、柿を齧ろうと口を開け、呻いた。
右の頬が痛い。そっと手をやると、見事に腫れ上がっている。殴られたのは一昨日だが、未だ引いていない。
七弥の拳は重かった。手加減は一切なく、身体の芯にめり込んだ。今も頬、いや顔の右半分が腫れ、食えど喋れど痛い。
「くそ」
悪態を吐くが、判っている。全て自業自得だ。
二日前のことを思い出す。
自分は一人、山道を歩いていた。彩八に蜂蜜を奪われ、だが諦め切れず、山中で蜂の巣を捜そうと思い立ったのだ。
やがて一本の巨木に目が留まった。蜜の取れる巣はこういう木の洞にある。茂みを掻き分けて近づき、木の周りをうろついていた、そのときだった。
背後で茂みが鳴った。熊か、と構えたが、振り返り、拍子抜けした。
「何だ、四蔵兄か」
気安く声を掛け、そこで気づいた。兄の様子が変だ。息は荒く、顔も真っ赤だ。
だが「どうした」と問うより早く、兄は自分に歩み寄り、がっと肩を掴んだ。逃さない、と言わんばかりに。
ひたと自分を見据え、兄は問うた。
「俺は何をした」
訳が判らず、問い返した。
「いつのことだよ」
「先日の宴の夜だ。俺は何をした」
訳は判った。だがこれは、極めてまずい。知らぬ方が幸いなこともある。これがまさにそれだ。
「よく覚えてねえな」とはぐらかそうとした。だが眼前の兄の様子に、開きかけた口を閉じた。
頬を朱に染め、瞳を潤ませ、縋るように肩を掴む。こんなにいたいけな生き物を無下に扱ってよいものか。答えは否である。
「酔っ払って、風兄の膝で寝ていた」
これで勘弁してくれ。胸中でそう願ったが、兄は許さなかった。
「それだけか」
「それ、だけだ」
目が泳ぐ。
「甚六!」
兄が襟を締め上げる。声も手つきも激しい。だがその顔は今にも崩れ、泣き出しそうに見えた。泣かれては困る。
「風兄は「布団で寝ろ」って言った。だけど四蔵兄は「お前がいい」って、風兄の膝から離れなくて」
支えながら話した。話が進むにつれ、四蔵兄の顔から色が失せていった。
話し終えると、兄は襟を放し、二歩三歩と後ずさった。かと思えば踵を返し、脱兎の如く駆け出した。愁兄より速い。だが放ってはおけない。
「四蔵兄!」
名を呼び、後を追うが、すぐ見失った。やがて辺りが暗くなり始め、やむを得ず家に戻った。
やはりというか、家の周りにも兄の姿はなかった。どころか夕飯の刻になり、居間に皆が集っても、兄は現れなかった。
一兄や愁兄が「珍しいな」と首を傾げ、風兄や七弥は不安げに視線を巡らしている。そんな皆を横目に、俯き、拳を握り締めた。
ーこれは、俺のせいだ。
皆に打ち明けるか。駄目だ。兄達に叱られる。いや、打ち明けて皆で四蔵兄を捜すべきでは。
悶々と考えていると、すぐ横で声がした。
「甚六」
七弥の声だ。振り仰ぎ、ぎょっとした。弟は鼻がつくほど顔を寄せ、此方の顔を覗き込んでいた。
「お前、四蔵兄に何かしたのか」
次いで据わった目で「したのだろ」と迫る。はぐらかせない。
「した、というか」
皆の視線を感じた。背を丸めて俯き、それでも話した。四蔵兄に問い質され、宴での兄の様子を教えてしまった、と。
兄弟は固まり、黙っていた。察したのだろう、彩八も然り。だが。
「この、馬鹿!」
怒号が轟いた。一兄でも三助兄でもない。七弥である。次いで頬に衝撃。殴られた、と気づいたのは、もんどりうって床に倒れた後だった。
七弥は止まらない。此方の襟を掴み、また拳を振り上げる。
「だめ!」
彩八が声を上げ、その腕にしがみつく。それで我に返ったように兄達が腰を上げた。愁兄と風兄が七弥を抑え込む。だが七弥は「離せ!」と喚き、暴れ続けた。その目からぼろぼろと、大粒の涙を零しながら。
聡明で利口な末の弟。そんな七弥のこんな姿は見たことがない。皆が息を呑み、身動きもできずにいる中、一人、動いた者がいた。
ごん、と硬い音。次いで頭に鈍痛。
「って!」
声を上げて振り仰ぐと、三助兄が立っていた。胸の前で固められた拳に、これを落とされたと気づく。
「本気で馬鹿だろ。お前」
兄は吐き捨て、再び拳を落とす。甘んじて受けた。兄の言うとおりだ。
やがて七弥は抗うのを止めた。重苦しい沈黙の中で一人、しゃくり上げ、泣き続けた。
それから半刻ほど経って、四蔵兄は帰ってきた。誰とも目を合わさず、足早に席につき、飯を掻き込んで席を立った。
それから一日余りが過ぎた。四蔵兄は、意外にも平気そうだ。少なくとも朝飯はきちんと食い、修行にも励んでいる。気まずそうではあるが、兄弟を避ける様子もない。
問題は七弥だ。昨晩からこの方、ずっと自分を避けている。口を利かず、目も合わさず、まるで無い者扱いだ。
ーあいつ、意外に根に持つよな。
内心でぼやく。反面、怒るのも尤もだと思う。今になって判る。口が裂けても言うべきではなかったと。
生真面目な兄のことだ。人の十倍は気に病み、挙げ句に何をしでかすか。不安が込み上げ、息が詰まる。
それに。
ーあいつでも、あんなふうに泣くんだな。
七弥の涙が頭を過ぎる。あの後、七弥は愁兄に抱えられ、しばし泣き続けた。小刻みに震える肩が、弱々しい嗚咽が、未だ生々しく、胸を締めつける。
と。
「何してんだ!」
不意の大声に我に返った。三助兄の声だ。出所は土間か。
小走りで向かい、戸口に顔を突き入れる。すぐ傍に四蔵兄が立っていた。その顔は蒼い。
「どうした」
と問うた。声で初めて気づいたように、兄は自分に向き直り、首を横に振った。
「火傷だ。大したことはない」
兄が手を掲げる。そうは言っても、手の甲は真っ赤だ。早く冷やさなくては。桶の水は少ない。だが兄はろくに気に留めず、手を入れようとする。
「甚六、そいつを連れていけ」
手が離せないのだろう。煮えた鍋の前で三助兄が言う。頷き、四蔵兄の手首を掴んだ。そして家の裏手の水がめに向かい、全力で駆けた。
・
何を、やっているんだろう。
薬の臭いを嗅ぎながら、溜め息が漏れた。とんだ失態をした。先程の土間での件だ。
自分は味噌汁の係だった。鍋に湯を沸かし、大根を切って入れたつもりが、横にあった天ぷらの鍋に入れていたらしい。
盛大に油が跳ねた。三助兄が直ぐ鍋を退けて事なきを得たが、そうでなければ大事になっていた。
これだけではない。昨日からずっと上の空だ。やたらと壁や柱に当たり、刀を置き忘れ。さもすると甚六の話が蘇り、他が疎かになるせいだ。
正直、兄弟と顔を合わせるのがつらい。特に風五郎とは。目が合うと逃げ出したくなる。
ーあんな失態は、二度と犯すまい。
奥歯を噛み締め、誓う。
まず酒は断つ。だがそれだけでは足りまい。一番の原因は酒ではない。自分の弱さにある。
ー俺は、弟に甘え過ぎている。
横にいたのが三助兄だったら、あんな真似はしなかった。一兄でも愁兄でもそうだ。風五郎だったから。日頃から気を許し、甘えている弟だったから。酒が過ぎ、甘えも過ぎた。
ーこのままでは、まずい。
そう思い、昨日からそれとなく隔たりを置いている。だが正直、既にしんどい。
まず、足がだるい。これは常日頃、高い所のものは弟が先んじて取っていたからだ。爪先立ちで手を伸ばし、それでも届かず台を持ち出すたび、何とも情けない心地になる。
加えて、とにかく落ち着かない。何をしていても、何か大事なことを忘れている気がする。目は勝手に弟の姿を探し、何をしている、と首を振る。その繰り返しだ。
ー情けない。
こんな体たらくで何が兄だ。自立せねば。
薬を塗り込めた手を膝に置く。包帯を巻こうとして、止めた。これしきの傷に包帯など大げさだ。
だが、きっと、あいつなら。
「痛くないか」と言って、包帯を巻くのだろうな。
ついそんなことを考えてしまい、また溜め息が漏れた。
畳む