2026/05/22 Fri 一夜花(10)最終話 #小説 「生きていく、あんたに」 蠱毒前の四蔵と七弥と三助の話です。 続きを読む・ 空が赤い。 仰向けになって、空を見ていた。赤い空の只中を、鳥の影が過ぎる。家に帰るのだろう。家は近いのか、それとも遠いのか。 自分の家は、遠い。 首を傾け、地上に目を転じる。海辺にぽつんと佇む小屋。今の自分達の家。見えている。十歩で着く。だが果てしなく遠い。もう帰れない。 身体が動かない。廉貞を使い過ぎた。全身の骨が砕けて死ぬと聞いていたが、まだ死んでいない。胸から下の感覚は一切ないが、目と鼻と耳はまだ生きている。 足音が止み、戸の軋む音がする。そして忍び笑い。あいつが妻と子を見つけたのだろう。 ー幻刀斎。 一言で、怪物だった。 息子の忘れ物を取りに、一人浜に向かった帰りだった。小屋のすぐ近くに老人が立っていた。一目で判った。殺気が、見えた。案の定、相手は口の端を吊り上げ、にたりと笑った。 ー京八流の七、烏丸七弥! 嬉々として名を呼び、迫る。恐ろしく速かった。足も、剣も。 全く歯が立たなかった。廉貞を使っても一方的に嬲られ、やがて三分が過ぎた。崩れるのは一瞬だった。全身に焼け付くような痛みを感じた、はずだ。眩し過ぎて何も見えない。あれと同じで、痛みも過ぎれば何も感じないようだ。 為す術もなく仰向けに倒れた。赤い空の下に、ぬっと黒い頭が突き出た。 「守れなんだのう。妻も、子も」 嗄れた声が降った。逆光で顔は見えない。だが嗤っている。いかにも愉快そうに。 言いたかった。させないと。殺させないと。だが息が上手く吸えず、声が出ない。それが可笑しかったのか、幻刀斎はくつくつと笑い、 「絶望のうちで死ね」 吐き捨て、踵を返した。文と蒼の元へ向かうのだろう。止める手立てはない。 ー文、頼む。逃げてくれ。蒼を連れて、早く。 切実に思う。逃げ切れるわけがない。それに、妻は逃げない。そういう人だった。自分よりずっと、強い人だった。 ・ 「あなたは私といて、幸せですか」 五日前の夕暮れ。小屋から金色の海を眺めながら、妻は問うた。 答えられなかった。 幸せだった。紛れもなく。胸中に次々と思い浮かぶ。二人で街を歩いたときの。義父と三人で膳を囲んだときの。蒼を挟んで三人で眠るときの。 ー笑顔。 思い出すのは、笑顔ばかりだ。泣き顔も怒り顔もあった。だが笑顔の方がずっと多かった。 そして自分は、妻の笑顔を眺めているのが、すごく幸せだった。 「幸せ、だったんだ」 辛うじて絞り出した。後はもう嗚咽しか出ない。涙は溢れ続ける。白んでいく視界の中で、妻は微笑んだ。そして。 「ならば、私も幸せでした」 気づけば拳を解いていた。手のひらを返し、重ねられていた妻の手を握る。温かく、柔らかく、いとおしい。 この手を取ってよかったと、心の底から思った。 背を押してくれたのは、あの兄だった。 ・ 「俺が幸せになっても、よいのかな」 立春の夜。婿入りの申し出を受け、自分は三助兄に問うた。 「当たり前だろうが」 兄は肩に顔を埋め、呟いた。その頭に手をやり、そっと撫でた。それで十分だと思っていた。だが振り返ると、心残りが一つ。大事なことを言いそびれた。 ーもう、幸せだったんだ。 兄といられて、自分は幸せだった。 海の蒼さに息を呑んだ。茶屋で並んで団子を食べた。瓦斯灯の眩さに目を丸くした。 そのすべてのときに、兄が隣に立っていた。「すごいな」「うまいな」「きれいだな」と思わず呟いた自分に、兄は「そうだな」と頷いてくれた。 斬られ、殴られた。「お前は一人で行け」と突き放されもした。だがそれでも、幸せだった。兄といられて、幸せだった。そう伝えそびれた。 兄は言った。「お前は隠し事が多い」と。禄存で察してくれるから甘えていたと、今になって気づいた。 ・ 小屋の方から、人声がする。妻の声だ。何を言っているかは聞き取れない。今まで聞いたことのない、強い声音だ。 やはり立ち向かうのだ。幻刀斎が相手だろうと。蒼を守るために。 そんな人だから、守りたかった。優しく、強く、こうと決めたら退かない。誰かを守るために身を惜しまない。そんな人だから、放っておけなかった。そこまで考えて、ふと気づいた。 あの兄に、似ていたのだな。 ー四蔵兄。 無口で無表情で、でも人一倍兄弟思いで、身を挺して妹を助ける。そんな優しい兄だった。だがその優しさは自身には向かなかった。無造作に無頓着に、身を削って止まなかった。だから放っておけなかった。そして忘れられなかった。 兄は便りを読んだろうか。何か感じたろうか。俺が死んだら、悲しむだろうか。少しでも心を、動かしてくれるだろうか。 胸が痛む。非道い夫だ。妻子をおいて兄を想うなど。だがそれでも止まらない。抜け殻でも構わない。もう一度だけ逢いたい。顔が見たい。声が聞きたい。せめてそれまで、生きていたい。 ーだめだ。 音が遠くなる。光が薄くなる。そして意識が、落ちる。 そのときだった。足音がした。小屋とは反対の方だ。ひどく荒い。瞼を上げた。目だけを動かして見やり、息を呑んだ。 ー嘘だ。 幻かと思った。だがまもなく相手は迫り、ついに傍らに立った。跪き、肩に腕を回して自分を抱き起こす。頬に当たる吐息は、確かに温かい。 「し、くら、に」 喉がつかえる。だが言わずにはおれなかった。 「だ、いじょう、ぶか」 兄の様子は、一目で異常だった。全身が激しく震え、息も荒い。顔も目も赤い。毒を浴びたあのときと同じーいや違う。きっと、風兄のことを思い出したのだろう。 声がした。小屋の方から、嗄れた嗤い声。幻刀斎だ。兄の震えが止まる。顔は白く変じ、一方で目は赤々と燃えて見えた。宿るのは、殺気だった。 兄が腕を下ろし、自分を横たえようとする。一人、幻刀斎の元に向かうのだろう。だが。 「い、くな」 兄の腕が止まる。幻刀斎は化物だ。一人では敵わない。犬死だ。だがそれよりも。 「い、かない、で」 ー置いて、行かないで。 ずっと、そう言いたかった。 十余年前の五月五日、継承戦の後。山道で兄を待った。虚ろな兄を前に、自分は「ごめんな」と言った。だが本当は。 ー連れて行ってくれ。 ー寄り添わせてくれ。 そう、言いたかったのだ。 ついに限界が来たのか、兄の顔が霞む。丁度良い。今はその顔を、その瞳を見るのが怖い。そこに自分の姿はない。それを改めて思い知らされるのが、つらい。 だが。 頬に、生温いものが降った。 そして。 「しちや」 兄は、呼んだ。 「しちや、しちや」 呼びながら、狂ったように肩を揺する。そうする間にも頬が濡れる。兄の目から零れ落ちる涙で。 兄は泣いていた。だがおかしい。人形の顔で、涙だけを流している。やはり壊れている。だが、残っている。心は残っている。 最後までこれだ。だから放っておけない。全力を振り絞り、紡ぐ。 「四蔵兄、廉貞を、頼む」 違うな。廉貞よ、四蔵兄を頼む。 「廉貞はー」 一音を発するごとに、奥義が、命が身体から零れ落ちていくのを感じる。それで構わない。 兄は黙って聞いていた。濡れた瞳の中に、自分の顔が見えた。笑っている。死に際で、痛みに喘ぎ、無力さを嘆き、それでも笑っている。とても幸せそうに。 ー幸せなのだ。 兄の腕の中で眠れることが、とても幸せなのだ。眠ってしまうことが、とても惜しい気がした。 奥義を託し終え、息を吸った。これを吐いたら自分は終わる。そう思うと同時に、自ずと身体が動いた。首を伸ばし、顔を寄せる。間近に見るそれは、やはり只管に美しく、いとおしかった。 見つめながら、唇を重ねる。温かく柔らかい。感じながら、息を吹き込む。命をつなぐように。 そうしながら、思った。 ー連れて行ってくれ、四蔵兄。 俺を。 俺の中にいる、文を、蒼を、義父を、兄弟達を。 彼らと交わした言葉を。 通わせた心を。 重ねた時の全てを。 生きていく、あんたに。 いつまでも、どこまでも、寄り添わせてくれ。 畳む
「生きていく、あんたに」
蠱毒前の四蔵と七弥と三助の話です。
・
空が赤い。
仰向けになって、空を見ていた。赤い空の只中を、鳥の影が過ぎる。家に帰るのだろう。家は近いのか、それとも遠いのか。
自分の家は、遠い。
首を傾け、地上に目を転じる。海辺にぽつんと佇む小屋。今の自分達の家。見えている。十歩で着く。だが果てしなく遠い。もう帰れない。
身体が動かない。廉貞を使い過ぎた。全身の骨が砕けて死ぬと聞いていたが、まだ死んでいない。胸から下の感覚は一切ないが、目と鼻と耳はまだ生きている。
足音が止み、戸の軋む音がする。そして忍び笑い。あいつが妻と子を見つけたのだろう。
ー幻刀斎。
一言で、怪物だった。
息子の忘れ物を取りに、一人浜に向かった帰りだった。小屋のすぐ近くに老人が立っていた。一目で判った。殺気が、見えた。案の定、相手は口の端を吊り上げ、にたりと笑った。
ー京八流の七、烏丸七弥!
嬉々として名を呼び、迫る。恐ろしく速かった。足も、剣も。
全く歯が立たなかった。廉貞を使っても一方的に嬲られ、やがて三分が過ぎた。崩れるのは一瞬だった。全身に焼け付くような痛みを感じた、はずだ。眩し過ぎて何も見えない。あれと同じで、痛みも過ぎれば何も感じないようだ。
為す術もなく仰向けに倒れた。赤い空の下に、ぬっと黒い頭が突き出た。
「守れなんだのう。妻も、子も」
嗄れた声が降った。逆光で顔は見えない。だが嗤っている。いかにも愉快そうに。
言いたかった。させないと。殺させないと。だが息が上手く吸えず、声が出ない。それが可笑しかったのか、幻刀斎はくつくつと笑い、
「絶望のうちで死ね」
吐き捨て、踵を返した。文と蒼の元へ向かうのだろう。止める手立てはない。
ー文、頼む。逃げてくれ。蒼を連れて、早く。
切実に思う。逃げ切れるわけがない。それに、妻は逃げない。そういう人だった。自分よりずっと、強い人だった。
・
「あなたは私といて、幸せですか」
五日前の夕暮れ。小屋から金色の海を眺めながら、妻は問うた。
答えられなかった。
幸せだった。紛れもなく。胸中に次々と思い浮かぶ。二人で街を歩いたときの。義父と三人で膳を囲んだときの。蒼を挟んで三人で眠るときの。
ー笑顔。
思い出すのは、笑顔ばかりだ。泣き顔も怒り顔もあった。だが笑顔の方がずっと多かった。
そして自分は、妻の笑顔を眺めているのが、すごく幸せだった。
「幸せ、だったんだ」
辛うじて絞り出した。後はもう嗚咽しか出ない。涙は溢れ続ける。白んでいく視界の中で、妻は微笑んだ。そして。
「ならば、私も幸せでした」
気づけば拳を解いていた。手のひらを返し、重ねられていた妻の手を握る。温かく、柔らかく、いとおしい。
この手を取ってよかったと、心の底から思った。
背を押してくれたのは、あの兄だった。
・
「俺が幸せになっても、よいのかな」
立春の夜。婿入りの申し出を受け、自分は三助兄に問うた。
「当たり前だろうが」
兄は肩に顔を埋め、呟いた。その頭に手をやり、そっと撫でた。それで十分だと思っていた。だが振り返ると、心残りが一つ。大事なことを言いそびれた。
ーもう、幸せだったんだ。
兄といられて、自分は幸せだった。
海の蒼さに息を呑んだ。茶屋で並んで団子を食べた。瓦斯灯の眩さに目を丸くした。
そのすべてのときに、兄が隣に立っていた。「すごいな」「うまいな」「きれいだな」と思わず呟いた自分に、兄は「そうだな」と頷いてくれた。
斬られ、殴られた。「お前は一人で行け」と突き放されもした。だがそれでも、幸せだった。兄といられて、幸せだった。そう伝えそびれた。
兄は言った。「お前は隠し事が多い」と。禄存で察してくれるから甘えていたと、今になって気づいた。
・
小屋の方から、人声がする。妻の声だ。何を言っているかは聞き取れない。今まで聞いたことのない、強い声音だ。
やはり立ち向かうのだ。幻刀斎が相手だろうと。蒼を守るために。
そんな人だから、守りたかった。優しく、強く、こうと決めたら退かない。誰かを守るために身を惜しまない。そんな人だから、放っておけなかった。そこまで考えて、ふと気づいた。
あの兄に、似ていたのだな。
ー四蔵兄。
無口で無表情で、でも人一倍兄弟思いで、身を挺して妹を助ける。そんな優しい兄だった。だがその優しさは自身には向かなかった。無造作に無頓着に、身を削って止まなかった。だから放っておけなかった。そして忘れられなかった。
兄は便りを読んだろうか。何か感じたろうか。俺が死んだら、悲しむだろうか。少しでも心を、動かしてくれるだろうか。
胸が痛む。非道い夫だ。妻子をおいて兄を想うなど。だがそれでも止まらない。抜け殻でも構わない。もう一度だけ逢いたい。顔が見たい。声が聞きたい。せめてそれまで、生きていたい。
ーだめだ。
音が遠くなる。光が薄くなる。そして意識が、落ちる。
そのときだった。足音がした。小屋とは反対の方だ。ひどく荒い。瞼を上げた。目だけを動かして見やり、息を呑んだ。
ー嘘だ。
幻かと思った。だがまもなく相手は迫り、ついに傍らに立った。跪き、肩に腕を回して自分を抱き起こす。頬に当たる吐息は、確かに温かい。
「し、くら、に」
喉がつかえる。だが言わずにはおれなかった。
「だ、いじょう、ぶか」
兄の様子は、一目で異常だった。全身が激しく震え、息も荒い。顔も目も赤い。毒を浴びたあのときと同じーいや違う。きっと、風兄のことを思い出したのだろう。
声がした。小屋の方から、嗄れた嗤い声。幻刀斎だ。兄の震えが止まる。顔は白く変じ、一方で目は赤々と燃えて見えた。宿るのは、殺気だった。
兄が腕を下ろし、自分を横たえようとする。一人、幻刀斎の元に向かうのだろう。だが。
「い、くな」
兄の腕が止まる。幻刀斎は化物だ。一人では敵わない。犬死だ。だがそれよりも。
「い、かない、で」
ー置いて、行かないで。
ずっと、そう言いたかった。
十余年前の五月五日、継承戦の後。山道で兄を待った。虚ろな兄を前に、自分は「ごめんな」と言った。だが本当は。
ー連れて行ってくれ。
ー寄り添わせてくれ。
そう、言いたかったのだ。
ついに限界が来たのか、兄の顔が霞む。丁度良い。今はその顔を、その瞳を見るのが怖い。そこに自分の姿はない。それを改めて思い知らされるのが、つらい。
だが。
頬に、生温いものが降った。
そして。
「しちや」
兄は、呼んだ。
「しちや、しちや」
呼びながら、狂ったように肩を揺する。そうする間にも頬が濡れる。兄の目から零れ落ちる涙で。
兄は泣いていた。だがおかしい。人形の顔で、涙だけを流している。やはり壊れている。だが、残っている。心は残っている。
最後までこれだ。だから放っておけない。全力を振り絞り、紡ぐ。
「四蔵兄、廉貞を、頼む」
違うな。廉貞よ、四蔵兄を頼む。
「廉貞はー」
一音を発するごとに、奥義が、命が身体から零れ落ちていくのを感じる。それで構わない。
兄は黙って聞いていた。濡れた瞳の中に、自分の顔が見えた。笑っている。死に際で、痛みに喘ぎ、無力さを嘆き、それでも笑っている。とても幸せそうに。
ー幸せなのだ。
兄の腕の中で眠れることが、とても幸せなのだ。眠ってしまうことが、とても惜しい気がした。
奥義を託し終え、息を吸った。これを吐いたら自分は終わる。そう思うと同時に、自ずと身体が動いた。首を伸ばし、顔を寄せる。間近に見るそれは、やはり只管に美しく、いとおしかった。
見つめながら、唇を重ねる。温かく柔らかい。感じながら、息を吹き込む。命をつなぐように。
そうしながら、思った。
ー連れて行ってくれ、四蔵兄。
俺を。
俺の中にいる、文を、蒼を、義父を、兄弟達を。
彼らと交わした言葉を。
通わせた心を。
重ねた時の全てを。
生きていく、あんたに。
いつまでも、どこまでも、寄り添わせてくれ。
畳む