2026/05/01 Fri 一夜花(8) #小説 「お前は一人で行け」 蠱毒前の四蔵と七弥の話です。 続きを読む・ 蝉が落ち始めていた。 朝方、戸口の外に骸が転がっていた。指で突こうとする息子を押さえ、箒を取って茂みへと払うと、乾いた音がした。 八月の終わり。昼は未だ暑いが、朝晩は幾分涼しい。 六月の始め、唐津に異動になった。病気で欠員が出たため、時期外れの異動だった。 佐賀の家を離れ、現地に家を借りた。義父や志津との別れを惜しみ、息子は大泣きした。一月を経た今も「じいさまはどこ」と妻の袖を引く。義父が訪ねてくると真っ先に戸口に向かい、別れ際には泣いた。 「じきに佐賀に戻る。そうしたらまた共に暮らせる」 そう言い含めていた。自分自身、そう思っていた。半月前までは。 半月前、義父が殺されたという報が入った。 急いで佐賀に戻った。対面した義父の遺体は、無惨だった。胴と首に深い刀傷。胴を斬られ、倒れる前に首を斬られたらしい。 義父は腕が立つ。となれば敵は相当の使い手だ。真っ先に浮かんだのは兄弟だった。だが誰の太刀筋とも違う。となれば残るは一人。 「幻刀斎、なのか」 思わず呟いた。だがそれも、傍らの妻の啜り泣きに消えた。震える肩に腕を回し、背を擦りながら、下唇を噛んだ。 幻刀斎だとすれば、義父が死んだのは自分のせいだ。そして妻も息子も危うい。 二人を置いて一人で消えるか。今さら遅い。義父を殺したのは見せしめだ。奴は次に妻子を、その後で自分を殺す。間違いない。 ならばやるべきは、逃げるか、殺すかだ。 ー無理だ。 逃げるのは無理だ。自分一人ならまだしも、妻子を連れてなど。殺すのも無理だ。山を降り、剣を手放して久しい。今の自分では敵わないー。 脳裏に二つの顔が浮かぶ。三助兄と四蔵兄。自分一人では敵わない。だが二人がいればー。 唐津に戻り、文を書いた。義父が幻刀斎に殺された。奴は遠からず自分達を狙う。唐津の家を離れ、身を隠すつもりだ。 そこまで書いて、筆が止まった。 何と続けるべきか。「来て共に戦って欲しい」か。三人なら敵うのか。二人を巻添えにするだけではないか。 ならば「早く逃げろ」か。三助兄は、妻子のこともある、聞き入れるだろう。だが四蔵兄は。どんなに様子が変わっても、風兄を殺した相手を放っておくとは思えない。 報せない方が良いのではないか。そうすれば、せめて二人は助かるのでは。 遠くで声が聞こえた。蒼の泣き声だ。腰を上げかけ、固まる。顔を合わせるのがひどく怖かった。 やがて泣き声に妻の声が重なる。やさしく、子をあやしている。 耳を塞いだ。一人になりたい。一人で死にたい。誰も巻き込まず一人で。だが判っている。もう遅いのだと。 筆を取る。乾いた先を改めて墨に浸す。続きは書かない。封筒に宛て名を記し、書きかけの文を入れる。封をしながら、目の前が暗くなるのを感じた。 思い出す。暗い道を三助兄と二人、歩き続けていたあの頃のことを。 ・ 跳ね起きた。夜半なのか、まだ辺りは暗い。闇の中、光るものが見えた。 ー刃だ。 全身が強ばる。とっさに枕元を探りかけ、止める。その後ろの青白い顔に気がついたからだ。 ー三助兄。 またやつれたようだ。こけた頬。濃い隈。そしてぎらついた目。それは自分ではなく、右後方に向いている。 兄を目の端に捉えながら、徐に振り返る。外れかけた戸の間に庭が覗く。茂みが大きく揺れ、現れたのはー狸だった。 息を吐き、兄に向き直る。なおも剣を構えている。四つん這いで寄り、剣を掴む手に手を被せた、そのときだった。 「触るな!」 怒声、次いで腹に鈍い痛みが走る。身を折って噎せながら、上目遣いに兄を見る。右手には剣。左手には、鞘か。あれで腹を突いたのだ。 痛みを堪えて唾を飲み下し、呼ぶ。 「三助兄」 雷にでも打たれたように、兄の身体が震えた。次いで腕が下がり、顔が盛大に歪む。泣き出しそうなそれに、胸を撫で下ろす。 「大丈夫か!」 刀も鞘も放り出し、肩を掴んで兄が問う。 「平気だよ」 笑みを浮かべて答える。だが兄はまして顔を歪め「すまない」と繰り返す。声が細り、啜り泣きに変わる。垂れた頭をそっと抱き込み、横たわる。兄の嗚咽と鼓動を感じながら、改めて眠りにつく。 山を降りて一月。三日を空けず、こんな夜がある。兄が悪い夢を見て、自分に刃を向ける。やがて我に返り「すまない」と泣く。震える身体を抱えながら、二人で寝入る。そんな夜。 兄は少しずつ落ち着いてきている。初日は腕を斬られた。傷は浅かった。だが兄は泣き喚き、激しく自身を責めた。涙と鼻水を垂れ流して手当をし、挙げ句「お前は一人で行け」と吐き捨てた。 自分は首を振った。「なんでだよ!」と激昂する兄に、黙って首を振り続けた。 ・ 三月も経つと、兄の発作は大分落ち着いた。 うなされて目覚め、自分に刃を向ける。だが名を呼ぶと我に返り「すまん」としおれて布団に戻る。 さらに二月が経つと、それもなくなった。目覚めても剣は抜かない。つられて起きた自分を見、やはり「すまん」と詫びる。 その日もまた、そうだった。 「すまん」 掠れた声で兄が詫びる。それに頷き、布団に潜る。 瞼を閉じて、思う。兄は寝付けるだろうか。朝、表で隈を剥がすように乱暴に顔を洗う。そんな姿が浮かび、胸が苦しくなる。 ーどうして俺には、心配することしかできないのかな。 横目で兄を見やる。痩せた背に、別人のそれが重なる。薄く、張りつめていて、壊れそうで。だから触れられなかった、あの背。 ふがいない、と思う。別の道を行くと決めたのに、未だ引きずっている。そして無力だ。触れられず、ゆえに救えない。 鼻の先がつんとなり、気づけば涙が零れていた。視界が滲み、兄の背が遠く見えた。 ーお前は一人で行け。 兄の言うとおりかもしれない。いくら寄り添っても、救えないのなら。 そのときだった。ふいに兄が振り返った。寝返りが間に合わず、目が合う。涙は止まらない。何か言わなければ。そう思うのに声が出ない。 兄は黙っていた。だがやがて半身を起こし、四つん這いで寄ってきた。そして同じ布団に潜り込み、自分を抱き締めた。しばらくじっとしていたが、やがて腕を動かし、頭を、肩を、背を、全身を撫でた。 いやな感じはしなかった。兄の手つきは、ひたすらにやさしかった。自分ではない、別の儚い何かを愛おしむように。身を委ねているうちに、瞼が降りていった。 朝、目覚めると、温もりは消えていた。兄は先に起き、外で顔を洗っていた。 一夜きりだと思っていた。だがその後も同じことが続いた。 「おやすみ」と言い合い、別の布団に入る。だがしばらくして、兄が布団に入ってくる。そして自分を抱き締め、全身を撫でる。自分は何も言わず、動かず、兄に身を委ね、やがて寝入る。 折に、兄が先に寝入るときがあった。そのとき、寝息の合間にこんな呟きを聞いた。 「⋯ら」 うなされている最中にも、同じことを呟いていた。 それは人の名だった。「幻刀斎」でも「七弥」でもない、別の人の名。 気づいていた。兄と自分は同じだ。それでも、それだからこそ、寄り添っているのだと。畳む
「お前は一人で行け」
蠱毒前の四蔵と七弥の話です。
・
蝉が落ち始めていた。
朝方、戸口の外に骸が転がっていた。指で突こうとする息子を押さえ、箒を取って茂みへと払うと、乾いた音がした。
八月の終わり。昼は未だ暑いが、朝晩は幾分涼しい。
六月の始め、唐津に異動になった。病気で欠員が出たため、時期外れの異動だった。
佐賀の家を離れ、現地に家を借りた。義父や志津との別れを惜しみ、息子は大泣きした。一月を経た今も「じいさまはどこ」と妻の袖を引く。義父が訪ねてくると真っ先に戸口に向かい、別れ際には泣いた。
「じきに佐賀に戻る。そうしたらまた共に暮らせる」
そう言い含めていた。自分自身、そう思っていた。半月前までは。
半月前、義父が殺されたという報が入った。
急いで佐賀に戻った。対面した義父の遺体は、無惨だった。胴と首に深い刀傷。胴を斬られ、倒れる前に首を斬られたらしい。
義父は腕が立つ。となれば敵は相当の使い手だ。真っ先に浮かんだのは兄弟だった。だが誰の太刀筋とも違う。となれば残るは一人。
「幻刀斎、なのか」
思わず呟いた。だがそれも、傍らの妻の啜り泣きに消えた。震える肩に腕を回し、背を擦りながら、下唇を噛んだ。
幻刀斎だとすれば、義父が死んだのは自分のせいだ。そして妻も息子も危うい。
二人を置いて一人で消えるか。今さら遅い。義父を殺したのは見せしめだ。奴は次に妻子を、その後で自分を殺す。間違いない。
ならばやるべきは、逃げるか、殺すかだ。
ー無理だ。
逃げるのは無理だ。自分一人ならまだしも、妻子を連れてなど。殺すのも無理だ。山を降り、剣を手放して久しい。今の自分では敵わないー。
脳裏に二つの顔が浮かぶ。三助兄と四蔵兄。自分一人では敵わない。だが二人がいればー。
唐津に戻り、文を書いた。義父が幻刀斎に殺された。奴は遠からず自分達を狙う。唐津の家を離れ、身を隠すつもりだ。
そこまで書いて、筆が止まった。
何と続けるべきか。「来て共に戦って欲しい」か。三人なら敵うのか。二人を巻添えにするだけではないか。
ならば「早く逃げろ」か。三助兄は、妻子のこともある、聞き入れるだろう。だが四蔵兄は。どんなに様子が変わっても、風兄を殺した相手を放っておくとは思えない。
報せない方が良いのではないか。そうすれば、せめて二人は助かるのでは。
遠くで声が聞こえた。蒼の泣き声だ。腰を上げかけ、固まる。顔を合わせるのがひどく怖かった。
やがて泣き声に妻の声が重なる。やさしく、子をあやしている。
耳を塞いだ。一人になりたい。一人で死にたい。誰も巻き込まず一人で。だが判っている。もう遅いのだと。
筆を取る。乾いた先を改めて墨に浸す。続きは書かない。封筒に宛て名を記し、書きかけの文を入れる。封をしながら、目の前が暗くなるのを感じた。
思い出す。暗い道を三助兄と二人、歩き続けていたあの頃のことを。
・
跳ね起きた。夜半なのか、まだ辺りは暗い。闇の中、光るものが見えた。
ー刃だ。
全身が強ばる。とっさに枕元を探りかけ、止める。その後ろの青白い顔に気がついたからだ。
ー三助兄。
またやつれたようだ。こけた頬。濃い隈。そしてぎらついた目。それは自分ではなく、右後方に向いている。
兄を目の端に捉えながら、徐に振り返る。外れかけた戸の間に庭が覗く。茂みが大きく揺れ、現れたのはー狸だった。
息を吐き、兄に向き直る。なおも剣を構えている。四つん這いで寄り、剣を掴む手に手を被せた、そのときだった。
「触るな!」
怒声、次いで腹に鈍い痛みが走る。身を折って噎せながら、上目遣いに兄を見る。右手には剣。左手には、鞘か。あれで腹を突いたのだ。
痛みを堪えて唾を飲み下し、呼ぶ。
「三助兄」
雷にでも打たれたように、兄の身体が震えた。次いで腕が下がり、顔が盛大に歪む。泣き出しそうなそれに、胸を撫で下ろす。
「大丈夫か!」
刀も鞘も放り出し、肩を掴んで兄が問う。
「平気だよ」
笑みを浮かべて答える。だが兄はまして顔を歪め「すまない」と繰り返す。声が細り、啜り泣きに変わる。垂れた頭をそっと抱き込み、横たわる。兄の嗚咽と鼓動を感じながら、改めて眠りにつく。
山を降りて一月。三日を空けず、こんな夜がある。兄が悪い夢を見て、自分に刃を向ける。やがて我に返り「すまない」と泣く。震える身体を抱えながら、二人で寝入る。そんな夜。
兄は少しずつ落ち着いてきている。初日は腕を斬られた。傷は浅かった。だが兄は泣き喚き、激しく自身を責めた。涙と鼻水を垂れ流して手当をし、挙げ句「お前は一人で行け」と吐き捨てた。
自分は首を振った。「なんでだよ!」と激昂する兄に、黙って首を振り続けた。
・
三月も経つと、兄の発作は大分落ち着いた。
うなされて目覚め、自分に刃を向ける。だが名を呼ぶと我に返り「すまん」としおれて布団に戻る。
さらに二月が経つと、それもなくなった。目覚めても剣は抜かない。つられて起きた自分を見、やはり「すまん」と詫びる。
その日もまた、そうだった。
「すまん」
掠れた声で兄が詫びる。それに頷き、布団に潜る。
瞼を閉じて、思う。兄は寝付けるだろうか。朝、表で隈を剥がすように乱暴に顔を洗う。そんな姿が浮かび、胸が苦しくなる。
ーどうして俺には、心配することしかできないのかな。
横目で兄を見やる。痩せた背に、別人のそれが重なる。薄く、張りつめていて、壊れそうで。だから触れられなかった、あの背。
ふがいない、と思う。別の道を行くと決めたのに、未だ引きずっている。そして無力だ。触れられず、ゆえに救えない。
鼻の先がつんとなり、気づけば涙が零れていた。視界が滲み、兄の背が遠く見えた。
ーお前は一人で行け。
兄の言うとおりかもしれない。いくら寄り添っても、救えないのなら。
そのときだった。ふいに兄が振り返った。寝返りが間に合わず、目が合う。涙は止まらない。何か言わなければ。そう思うのに声が出ない。
兄は黙っていた。だがやがて半身を起こし、四つん這いで寄ってきた。そして同じ布団に潜り込み、自分を抱き締めた。しばらくじっとしていたが、やがて腕を動かし、頭を、肩を、背を、全身を撫でた。
いやな感じはしなかった。兄の手つきは、ひたすらにやさしかった。自分ではない、別の儚い何かを愛おしむように。身を委ねているうちに、瞼が降りていった。
朝、目覚めると、温もりは消えていた。兄は先に起き、外で顔を洗っていた。
一夜きりだと思っていた。だがその後も同じことが続いた。
「おやすみ」と言い合い、別の布団に入る。だがしばらくして、兄が布団に入ってくる。そして自分を抱き締め、全身を撫でる。自分は何も言わず、動かず、兄に身を委ね、やがて寝入る。
折に、兄が先に寝入るときがあった。そのとき、寝息の合間にこんな呟きを聞いた。
「⋯ら」
うなされている最中にも、同じことを呟いていた。
それは人の名だった。「幻刀斎」でも「七弥」でもない、別の人の名。
気づいていた。兄と自分は同じだ。それでも、それだからこそ、寄り添っているのだと。畳む