まぼろし

イクサガミの二次創作をしています

一夜花(9) #小説

「俺が幸せになっても、よいのかな」
蠱毒前の四蔵と七弥と三助の話です。



「おとうさん、うみ」
 浜を指差し、息子が振り返る。頷いてやると、砂を蹴って駆け出したが、波打ち際で立ち止まり、また振り返った。「来い」という顔だ。小走りで向かう。
 唐津の外れの海辺。ここへ来て十日が経つ。仕事は休んでいる。義父の忌引と妻の不調と届けたが、半分は嘘だ。幻刀斎から逃げている。逃げ切れるかは判らない。
「おとうさん、なみ」
 言いながら、息子はさらに海に近づく。波を追い、逃げる。足を濡らして笑い、その度に振り返る。
ーいるよ。
 ここにいる。どこにも行かない。答えるように、その小さな手を握る。


 海辺の小屋は粗末だった。漁師の仮の住まいだそうで、居間と土間、風呂と便所があるだけだ。なのでほとんどを居間で過ごす。
 窓の外は海だ。日は海に沈むので、夕暮れ時には金色に染まる。床に座って見ていた。息子は遊び疲れ、傍らで眠っている。頭を撫でながら、ふと思う。
ー初めて海を見たのは、いつだったか。
 山を降りて間もない頃だ。兄と並んで浜に立ち、揃って息を呑んだ。波に足を浸し「冷たい」と笑い合った。
 便りは届いたろうか。三助兄に。そして四蔵兄に。
「きれいですね」
 声がして我に返る。振り返ると妻が立っていた。海に目を細め、傍らに腰を下ろす。
 しばらく並んで海を眺めた。互いに何も言わず、波の音だけが響く。
 やがて妻が動いた。自分の方を向き、じっと顔を見つめて「顔色が」と呟く。悪いのだ。案の定、妻は続けた。
「昨日の晩も、うなされていました」
「すまない。うるさかったな」
 妻は首を振り、身を近づけた。頭を抱き寄せられ、肩に凭れる。改めて海を眺める。薄い手が頭を撫でるたび、空と海の境が滲んでいく。
ー泣いて縋れば、楽になれる。
 判っている。だができない。
 目を床に落とす。床板は擦り切れ、今にも抜けそうだ。ひどい家だ。だが妻は文句一つ言わない。どころか「何のため」と問うこともない。夫を追いつめまいと。
 全て打ち明けるべきだ、と思う。だが言い出せない。これ以上妻を怯えさせ、苦しめたくはない。だから黙っていなければ。黙って、黙って。
 頭を撫でる手が、不意に止まった。
「あなた」
 妻が呼んだ。静かな声だ。責めるでも急かすでもない。なのに。
「俺のせいだ」
 気づけば口が動いていた。止まれと思うが止まらない。山での修行、八人の義兄弟、京八流の掟、そして幻刀斎。次々に溢れ出す。
 妻は黙って聞いていた。話し終えると、もう日は沈んでいた。月光が室内を照らす。膝の上の拳が死人のように白い。死んでいれば良かった。この人と会う前に。
「すまない」
 堪え切れず、拳に涙が落ちた。泣きたいのは妻の方だ。なのに。
「あなたは悪くない」
 妻は言い、空いていた手を伸ばした。涙に濡れた拳を包む。控え目な温もりが堪らなく愛おしく、かなしかった。
「幸せに、してやれなかった」
 声が掠れ、拳が震える。妻の手に力が篭もる。思いがけず強い力だ。
 どれだけそうしていたのだろう。やがて妻が口を開いた。
「あなたは」
 一拍を置いて、問う。
「私といて、幸せですか」

ー幸せですか。
 不意に思い出した。かつて自分が投げかけた、あの一言を。
ー三助兄。
ー俺が幸せになっても、よいのかな。


「娘の護衛をする気はないか」
 あの日のことだ。湯呑を置きながら、義父は言った。

 初めて義父に会ったのは、もう五年も前。
 秋晴れの、空の高い日だった。一人の男が自分達の長屋を訪ねてきた。見知らぬ、しかも上等な身なりの男。まずは驚き、そして構えた。
 そんな自分に彼は笑み「礼に参った。娘を助けてくれたのだろう」と頭を下げ、風呂敷包みを差し出し、その場で解いた。中身は羊羹と金一封だった。
 男は羊羹を差し「共にどうかね」と言う。何となく抗えず、中に通した。茶を淹れて羊羹と出すと、男は「甘いものは好きでね」と嬉しそうに一つを取った。
 茶を飲みながら、男は身の上を語った。自分は佐賀の役人だが、この一年は東京に赴任している。「男一人では不便でしょう」と娘がついてきたが、これが目下悩みの種だ。先の一件で判った。東京は思いのほか危ない。特に女にとっては。だが犬猫のようにつないでもおけない。
「そこでだ」
 男は湯呑を置き、自分をじっと見つめて言った。
「君は娘の護衛をする気はないか」
「え」
「護衛というより子守かもしれんが」
「ちょっと待ってください」
 慌てる自分をよそに、男は話を進める。仕事は週に五日、日当は三十銭、内容はー。正直、かなりの好条件だった。さらに相手は「君は職探し中と聞いたが、別の職についても伝手がある」と言う。いっそ怪しく思えたが、噓の感じはしない。だが。
「娘さんは、それでよいのですか」
 得体の知れない男が傍にいて、いやではないのか。そう問うと、男は口の端を上げ、言った。
「娘が申し出たのだ。護衛ならば、あの人が良いとな」

 翌日から仕事が始まった。
 朝七時半に家に行き、出勤する男を娘と並んで見送る。そして娘の家事を手伝い、外出に付き合う。娘の名は文(あや)と言った。
 家に下働きの女中などはおらず、男の不在中は文と二人きり。どうにも居心地が悪い、と思ったのは初日だけで、翌日には慣れた。
 文は良い娘だった。言葉少なで表情も控えめだが、温かな心の持ち主で、そして芯が強い。その日も買出しの帰りに迷子を見つけ、共に親を探した。
 迷子など珍しくない。親が見つけ、連れて帰る。そう言ったが、文は首を振った。
「放っておけなかったのです」
「またそれか」
 呆れ半分に言うと、文は笑った。
「貴方だって私を、放っておかなかったではありませんか」

 仕事を始めて半年が過ぎた。
 立春が過ぎ、いくらか寒さも和らいでいた。だが土間は冷える。湯気の立つ味噌汁が、やたら旨そうに見える。
 夕飯の支度をしていた。献立は一汁一菜。白飯に味噌汁、そして鰻の蒲焼き。帰りがけに男から持たされたものだ。
 全てを膳に並べ、居間に持っていく。居間には兄がいる。囲炉裏に当たりながら縄を編んでいたが、顔を上げて膳を見るなり、目を丸くした。
「えらいごちそうだな」
 鰻のことだ。さらに「俺の稼ぎじゃ食えねえよ」とごちるが、声はからりと明るい。兄は明るくなった。東京に来てから、少しずつそうなった。車夫となり、上客がつくようになり、笑うことも増えた。いや、これはあの人に会えたからか。
 一人の女の顔が浮かぶ。兄の上客の家の下働きの女で、名は咲という。
 秋の暮だったか。夕飯の後、共に片付けをしていた折、ふと兄が言った。「客の家に変な女がいる」と。
 何が変かと問うと、兄を見かけると「お疲れ様です」「お気をつけて」と声を掛けてくるという。「車夫を気遣っても仕方ないのにな」と兄は心底不審がっていた。
 それが段々と変わった。「変な女」は「咲」になり、彼女について話すことが増え、やがて休日に連れ立って出かけるようになった。
 つい最近、自分も彼女に会った。兄と町を歩いていて出くわしたのだ。驚いたのか、おどおどしていたが、兄を見る目は温かだった。
「あの人になら三助兄を任せられるよ」
「何だそれ」
 そう言って頭を小突いた兄の頬は、ほんのりと赤かった。
 旨いものを食べるときは、誰しも無口になる。黙って鰻を味わい、惚けた顔で箸を置いたところで、不意に兄が言った。
「お前のその仕事も、もう半年か」
「来月には終わるよ。佐賀に帰るんだ」
 男の赴任は一年、来月で終わりだ。男と娘は佐賀に帰り、自分の仕事も終わる。
「何か言われたか」
 兄が問う。だから禄存はいやなのだ。他人の声の微妙な変化を聞き分け、胸の内を察する。「ずるいな」と漏らすと「どっちが。お前は隠し事が多い」と兄。そうかもしれない。一つ息を吐き、打ち明けた。
「役人にならないか、と言われた」
 兄があんぐりと口を開ける。珍しく、その顔でしばし呆けていたが、
「よかったな!」
 身を乗り出し、肩を掴んで揺らす。我が事よりもよほど嬉しそうで、思わず目線を外した。居た堪れなかった。気づいたのか、兄は手を止め、
「まさかお前、俺のこと気にしてねえだろうな」
 それもある。ずっと連れ添ってきた。気にならないわけがない。だが、それだけではない。
「婿養子にならないか、と言われた」
 昨夕のことだ。男が早めに帰り、三人で膳を囲んだ。その席で申し出があった。「お前さえ良ければ」と男に言われ、とっさに文を見た。お前はそれで良いのかと。
 文は顔を上げ、はきと言った。「私から父にお願いしました」と。「私は貴方と共にいたいのです」と。
 真っ先に込み上げたのは、恐怖だった。
ー俺は、真っ当な人間じゃない。
 文は何も知らない。師に拾われ、剣だけを教わったこと。兄弟と殺し合えと言われ、自ら死のうとしたこと。あの兄の影を、ずっと曳いていること。
 文は知らない。だから好きだと言える。知ればきっと離れる。
ー違う。文は離れない。だからこそ怖い。
ー違う。怖いよりも、つらいのだ。
 届かない相手を、ずっと慕うのはつらい。自分が文に同じ思いをさせるかと思うと、怖くてつらくて、かなしい。
 だがそれでも文なら、こう言う気がした。
ー慕うのを止める方が、つらくかなしいのではありませんか、と。
ーだからこそ貴方は、慕い続けるのではありませんか、と。
「三助兄」
 声に出し、気づく。呼びたいのは別の名だ。
ー四蔵兄。
「俺が幸せになっても、よいのかな」
 兄は答えない。不意に肩に重みを感じた。兄が、肩に頭を凭れさせていた。懐かしい。東京に来てからは、抱き締め合って眠ることもなくなっていた。
 旋毛に手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。こうやって何度も撫でた。その形を憶えるほどに。細く柔らかな髪の感触に、鼻の奥がつんとした。
 兄は黙っていた。だがやがて呟いた。
「当たり前だろうが」
 思った。
ー四蔵兄なら、何と言ってくれたかな。
 判らない。ただ、もう一度だけ、声が聞きたかった。
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