2026/05/31 Sun 烏丸七弥の憂鬱(2) #小説 「⋯やだ…」 義兄弟男七人が繰り広げる、宴の一夜のドタバタコメディです(多分)。 全3話予定。 続きを読む・ その日の夜。 彩八が寝入ったのを確かめ、兄弟は床を出、庭に集った。 「月見酒だな」 空を見上げ、甚六が言う。空の高い場所に真ん丸の月が浮かんでいる。 一兄はたまに師の酌に付き合う。だが他は初めての宴だ。 兄弟が輪になって座る。甚六が湯呑に酒を注ぎ、それを手渡しで回す。全員に行き渡ると、一兄が湯呑を掲げ、皆が倣った。 「では」 と一兄が声を上げる。 「「では」」 と皆が返し、揃って湯呑を傾けー。 「「甘い」」 全員の声が重なった。 甘い。とてつもなく甘い。喉や腹、さらに全身がじんわりと温まり、それが何とも心地よい。つい一口、もう一口と湯呑を傾けてしまう。 皆も同じらしい。すぐに一杯を干し、愁兄と甚六は早くも赤ら顔だ。一兄と三助兄は一見素面のようだが、三助兄は心持ち目尻が下がっている。 四蔵兄と風兄はどうだろう。まずは四蔵兄に目をやり、絶句した。 ーまずくないか。これは。 四蔵兄は、明らかに酔っていた。愁兄達ほどではない。だがー。 とろりとした瞳。さくら色の頬。牡丹色の唇。上せて暑いのか、緩めた襟から白い喉が覗く。 思わず目を逸らした。何かこう、見てはならない気がしたのだ。 風兄は隣に座っている。こちらは一兄達と同じで、さほど酔っていないように見える。だがその目は妙に熱っぽく、常に四蔵兄に向いているような。 ともあれ宴は続く。甚六が皆の湯呑を満たして回り、三杯、四杯と酒は進みー筒の殆どが空になり、兄弟はすっかり出来上がっていた。 甚六が「風兄、おんぶ」と大きな背に抱きつく。いきなりの重みに風兄がつんのめり、愁兄と三助兄がげらげらと笑う。 四蔵兄は風兄の隣でぼんやりと中空を眺めていたが、やがて俯いた。小さな頭がこくり、こくりと揺れ、いかにも危なげだ。 「…ん」 案の定、四蔵兄の身体が傾いだ。隣に座る風兄に凭れ、膝に頭を落とす。 普段の兄ならば「すまない」と詫びるや否やで身を起こす。だが今日は違った。起きることなく、満足げな笑みを浮かべ、ゆっくりと瞼を下ろした。 明らかに、膝枕で寝ようとしている。 「四蔵兄、布団で寝ろ」 風兄が肩に手を置き、軽く揺する。だが四蔵兄はいやいやと首を振り、 「…やだ…」 そう呟いた。 絶句した。今のは、本当に兄の声か。まるで甘ったれの幼子ではないか。 空耳だ。空耳だった。そう思い込もうとした、そのときだった。 「…が、いい」 はきと聞こえた。聞こえてしまった。「…おまえが、いい」と。 息を呑む音がして、脇を見やる。いつのまにか甚六がいた。打って変わって真顔だ。目を合わせ、頷き合う。 ーこれは、本気でまずい。 辺りを見やる。一兄と愁兄、三助兄の三人は、少し離れた場所で話し込んでいる。愁兄が大声で笑っている。こちらの声など聞こえまい。 全て空耳だった。そういうことにしておいて、さっさと四蔵兄を寝所にーと改めて兄を見やり、そこで固まった。 風兄が、膝の上の頭をそっと撫でていた。その手つきに息を呑んだ。儚く、美しいものを愛おしむようで、ひどく胸が締めつけられる。 いや、感じ入っている場合ではない。 やがて愁兄が気づいた。二人を見て顔色を変え、すっと立ち上がった。足早にやって来ると、屈み込み、四蔵兄の肩に手を置いた。 「おい、四蔵」 名を呼び、揺する。その手首を大きな手が掴んだ。風兄である。 「このままでいい」 愁兄を見据え、告げる。口調は柔らかいが目つきは鋭い。邪魔をするな、ということか。 「本気でまずいな」 甚六が呻く。全くだ。愁兄と風兄が睨み合う。そんな光景は、いまだかつて見たことがない。だが酒、いや酒の入った四蔵兄のせいで一切が狂っている。 一触即発。そんな四文字が頭を過ぎる。 どうにかしなければ。だが、どうする。思い悩む間にも、空気は張り詰めていく。そして。 「…ん」 四蔵兄が動いた。猫のように身を捩り、膝に頬ずりをする。甚六がごくりと唾を呑む。お前もか、と思わず頭を抱えそうになった、そのときだった。 「どうした」 声が降った。目を上げると、一兄が一同を見下ろしていた。涼しげな細面をじっと見つめる。助けてくれ。そう念じながら。 一兄は愁兄をそれとなく押しのけ、四蔵兄の前に膝をついた。そして手を伸ばし、剥き出しのうなじに触れた。 四蔵兄の身体がびくりと震える。薄目を開けて一兄を仰ぎ、 「…つめたい」 不満げな声で呟く。だが一兄は薄く笑み、 「お前が上せているんだ」 そう言いながら首元をまさぐる。くすぐったいのか、四蔵兄の唇から「ふふっ」と怪しげな吐息が漏れる。一兄の笑みが深くなる。 いやな予感がした。そして、それは当たった。 「冷やしてやろう」 一兄が四蔵兄の脇に手を入れ、抱え上げようとする。全身の血の気が引いた。冷やすとは何だ。どこに連れて行くつもりだ。 朱を帯びた肌を、白い手が滑る。そんな光景が頭を過ぎる。 愁兄と風兄は揃って一兄を見上げ、何も言えないでいる。それはそうだ。一兄は長兄で、しかも一見正しい。だから止められない。 ー詰みだ。 俯いて下唇を噛んだ。そのときだった。 「おい一兄。どこ行くんだ」 意外な声にはっと顔を上げた。三助兄である。一兄の肩を掴み、顰め面を向けている。だが。 「さあ」 一兄が微笑むや、押し黙ってしまった。この兄は勝ち気だが、妙なところで押しが弱い。だからまず言えない。「四蔵を手篭めにする気じゃねえだろうな」とは。 だがそれでも、三助兄は時を稼いだ。 「一兄」 腹を括ったらしい。愁兄が声を上げた。ついで風兄が四蔵兄を後ろから抱き締め、引き戻そうとする。これはこれでまずい。三つ巴になる。 堪らず甚六を振り返った。だが無駄だった。どこから持ち出したのか、箸で湯呑を叩いている。「でけでん、でけでん」と楽しげに。どうやら戦の陣太鼓のつもりらしいが。 ー馬鹿。煽ってどうする! どつきたくなったが、そんな暇はない。 ーだめだ。俺しかいない。 覚悟を決め、腰を上げた。そして兄達の間に割って入る、つもりだった。 だが、思いのほか酔いが回っていたのか。一歩を踏み出すなり、ぐらりと身体が傾ぎ、そして兄達の間へ盛大に倒れ込んだ。 受け身も取れず、こめかみを打った。痛みは感じなかったが、吐き気が込み上げた。起きなければと思うが、腕に力が入らない。 首を捻って上を向くと、一つの顔が目に入った。 潤んだ瞳。上気した頬。 「しちや、だいじょうぶか」 舌足らずな調子で問う。四蔵兄である。「しちや」と甘ったるい声で繰り返す兄を前に、喚きたくなった。 ーあんたのせいで、大丈夫じゃなくなってんだ。 むろん声は出ない。兄が手を伸べ、頬に触れる。その手があまりに温かくて、なぜだか鼻の奥がつんとした。 視界が狭まり、気が遠くなる。縋るように兄の手を掴んだ。そしてそのまま、意識は闇に沈んだ。 畳む
「⋯やだ…」
義兄弟男七人が繰り広げる、宴の一夜のドタバタコメディです(多分)。
全3話予定。
・
その日の夜。
彩八が寝入ったのを確かめ、兄弟は床を出、庭に集った。
「月見酒だな」
空を見上げ、甚六が言う。空の高い場所に真ん丸の月が浮かんでいる。
一兄はたまに師の酌に付き合う。だが他は初めての宴だ。
兄弟が輪になって座る。甚六が湯呑に酒を注ぎ、それを手渡しで回す。全員に行き渡ると、一兄が湯呑を掲げ、皆が倣った。
「では」
と一兄が声を上げる。
「「では」」
と皆が返し、揃って湯呑を傾けー。
「「甘い」」
全員の声が重なった。
甘い。とてつもなく甘い。喉や腹、さらに全身がじんわりと温まり、それが何とも心地よい。つい一口、もう一口と湯呑を傾けてしまう。
皆も同じらしい。すぐに一杯を干し、愁兄と甚六は早くも赤ら顔だ。一兄と三助兄は一見素面のようだが、三助兄は心持ち目尻が下がっている。
四蔵兄と風兄はどうだろう。まずは四蔵兄に目をやり、絶句した。
ーまずくないか。これは。
四蔵兄は、明らかに酔っていた。愁兄達ほどではない。だがー。
とろりとした瞳。さくら色の頬。牡丹色の唇。上せて暑いのか、緩めた襟から白い喉が覗く。
思わず目を逸らした。何かこう、見てはならない気がしたのだ。
風兄は隣に座っている。こちらは一兄達と同じで、さほど酔っていないように見える。だがその目は妙に熱っぽく、常に四蔵兄に向いているような。
ともあれ宴は続く。甚六が皆の湯呑を満たして回り、三杯、四杯と酒は進みー筒の殆どが空になり、兄弟はすっかり出来上がっていた。
甚六が「風兄、おんぶ」と大きな背に抱きつく。いきなりの重みに風兄がつんのめり、愁兄と三助兄がげらげらと笑う。
四蔵兄は風兄の隣でぼんやりと中空を眺めていたが、やがて俯いた。小さな頭がこくり、こくりと揺れ、いかにも危なげだ。
「…ん」
案の定、四蔵兄の身体が傾いだ。隣に座る風兄に凭れ、膝に頭を落とす。
普段の兄ならば「すまない」と詫びるや否やで身を起こす。だが今日は違った。起きることなく、満足げな笑みを浮かべ、ゆっくりと瞼を下ろした。
明らかに、膝枕で寝ようとしている。
「四蔵兄、布団で寝ろ」
風兄が肩に手を置き、軽く揺する。だが四蔵兄はいやいやと首を振り、
「…やだ…」
そう呟いた。
絶句した。今のは、本当に兄の声か。まるで甘ったれの幼子ではないか。
空耳だ。空耳だった。そう思い込もうとした、そのときだった。
「…が、いい」
はきと聞こえた。聞こえてしまった。「…おまえが、いい」と。
息を呑む音がして、脇を見やる。いつのまにか甚六がいた。打って変わって真顔だ。目を合わせ、頷き合う。
ーこれは、本気でまずい。
辺りを見やる。一兄と愁兄、三助兄の三人は、少し離れた場所で話し込んでいる。愁兄が大声で笑っている。こちらの声など聞こえまい。
全て空耳だった。そういうことにしておいて、さっさと四蔵兄を寝所にーと改めて兄を見やり、そこで固まった。
風兄が、膝の上の頭をそっと撫でていた。その手つきに息を呑んだ。儚く、美しいものを愛おしむようで、ひどく胸が締めつけられる。
いや、感じ入っている場合ではない。
やがて愁兄が気づいた。二人を見て顔色を変え、すっと立ち上がった。足早にやって来ると、屈み込み、四蔵兄の肩に手を置いた。
「おい、四蔵」
名を呼び、揺する。その手首を大きな手が掴んだ。風兄である。
「このままでいい」
愁兄を見据え、告げる。口調は柔らかいが目つきは鋭い。邪魔をするな、ということか。
「本気でまずいな」
甚六が呻く。全くだ。愁兄と風兄が睨み合う。そんな光景は、いまだかつて見たことがない。だが酒、いや酒の入った四蔵兄のせいで一切が狂っている。
一触即発。そんな四文字が頭を過ぎる。
どうにかしなければ。だが、どうする。思い悩む間にも、空気は張り詰めていく。そして。
「…ん」
四蔵兄が動いた。猫のように身を捩り、膝に頬ずりをする。甚六がごくりと唾を呑む。お前もか、と思わず頭を抱えそうになった、そのときだった。
「どうした」
声が降った。目を上げると、一兄が一同を見下ろしていた。涼しげな細面をじっと見つめる。助けてくれ。そう念じながら。
一兄は愁兄をそれとなく押しのけ、四蔵兄の前に膝をついた。そして手を伸ばし、剥き出しのうなじに触れた。
四蔵兄の身体がびくりと震える。薄目を開けて一兄を仰ぎ、
「…つめたい」
不満げな声で呟く。だが一兄は薄く笑み、
「お前が上せているんだ」
そう言いながら首元をまさぐる。くすぐったいのか、四蔵兄の唇から「ふふっ」と怪しげな吐息が漏れる。一兄の笑みが深くなる。
いやな予感がした。そして、それは当たった。
「冷やしてやろう」
一兄が四蔵兄の脇に手を入れ、抱え上げようとする。全身の血の気が引いた。冷やすとは何だ。どこに連れて行くつもりだ。
朱を帯びた肌を、白い手が滑る。そんな光景が頭を過ぎる。
愁兄と風兄は揃って一兄を見上げ、何も言えないでいる。それはそうだ。一兄は長兄で、しかも一見正しい。だから止められない。
ー詰みだ。
俯いて下唇を噛んだ。そのときだった。
「おい一兄。どこ行くんだ」
意外な声にはっと顔を上げた。三助兄である。一兄の肩を掴み、顰め面を向けている。だが。
「さあ」
一兄が微笑むや、押し黙ってしまった。この兄は勝ち気だが、妙なところで押しが弱い。だからまず言えない。「四蔵を手篭めにする気じゃねえだろうな」とは。
だがそれでも、三助兄は時を稼いだ。
「一兄」
腹を括ったらしい。愁兄が声を上げた。ついで風兄が四蔵兄を後ろから抱き締め、引き戻そうとする。これはこれでまずい。三つ巴になる。
堪らず甚六を振り返った。だが無駄だった。どこから持ち出したのか、箸で湯呑を叩いている。「でけでん、でけでん」と楽しげに。どうやら戦の陣太鼓のつもりらしいが。
ー馬鹿。煽ってどうする!
どつきたくなったが、そんな暇はない。
ーだめだ。俺しかいない。
覚悟を決め、腰を上げた。そして兄達の間に割って入る、つもりだった。
だが、思いのほか酔いが回っていたのか。一歩を踏み出すなり、ぐらりと身体が傾ぎ、そして兄達の間へ盛大に倒れ込んだ。
受け身も取れず、こめかみを打った。痛みは感じなかったが、吐き気が込み上げた。起きなければと思うが、腕に力が入らない。
首を捻って上を向くと、一つの顔が目に入った。
潤んだ瞳。上気した頬。
「しちや、だいじょうぶか」
舌足らずな調子で問う。四蔵兄である。「しちや」と甘ったるい声で繰り返す兄を前に、喚きたくなった。
ーあんたのせいで、大丈夫じゃなくなってんだ。
むろん声は出ない。兄が手を伸べ、頬に触れる。その手があまりに温かくて、なぜだか鼻の奥がつんとした。
視界が狭まり、気が遠くなる。縋るように兄の手を掴んだ。そしてそのまま、意識は闇に沈んだ。
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